子は父をいつか越えようと思う。成人し、父を超えたと自負する。時がたち、越えられない父の偉大さに気がつく。転職をキーワードとして、今度は父として子たちへ、メッセージを伝えていきたい。

 第一部 父から子たちへ (2001年8月25日創刊)

 第二部 外資=博打のバ とギャンブルのブル
 (2001年12月1日創刊)

 第三部 春のうらら=夢のあと
 (2002年11月16日創刊) 

 第四部 異業種=情報処理産業
 (2003年6月1日創刊)

 第五部 再びアイアコッカをめざして
 (2004年5月29日創刊)

創刊0号

「創刊に向けて」

現在と違い、まだ転職が離婚と同じように一般的でなかった時代。親兄弟親戚に相談したら間違いなく反対され敗者のレッテルをはられてしまうような社会の風潮にさからい、今ためらって10年後に後悔したくはないと踏み出した1980年代。幼かった子たちへあの時父は何を考えていたかを、そろそろ伝えておきたい。子たちが転職を考えた時の参考に。

「序章の終わりに」 -思い出のカルメン・マキ-

ひとつの時代の終わりがまさに始まろうとする時、彼女は現われ、テーマを歌い、そして去っていった。残った大沢村カナダハウスの学友は、拡散と日常性への回帰の中で、重苦しい漂いを経験することになった。傷ついた友の、死の底からの呻きが無力な人間の胸をつぶす。多くの友が旅に出て行った。悲しみとつらさをそれぞれの身に突き刺したままに。 あの時の異常な心の高まり、体中が震えた感動はすでになく、今は、ふやけた感傷。数行の言葉に生きることの充実を見つけて5年。別の生き方があることを期待し旅に出、どこかに大切なものをおいてきた。

あれから5年。なつかしいエピソードとして語るところに意識の後退が始まることを恐れて生きてきた。しかしながら、5年の歳月と現実のはかり知れない重さは、なつかしさを押し潰してしまうものなのか。思い出のカルメン・マキを乗り越えるところに、個人史的にとらえるなら、ひとつの時代の序章が終わりを告げる。

私の意識のうちで常に曖昧にされていた部分・・・日常の雑事にかまけて心の隅に押し込んでいた問題・・・愛、結婚、私の生き方、夢、信ずべきもの、大切なもの、失ってはならないもの・・・現在の状況がまさに己自身の弱さに限界付けられていること。考えざるを得ない。自らを甘やかすことにより現実に潰されている一個の人間の、その限界性と否定性を突き破ったところに、新たな地平を創造することを期して。
1974年6月27日

創刊号 01/08/25

■創刊にあたって。

1980年代、当時全盛であったミニコミ誌にはご縁がなかったのですが、20年後、インターネットのおかげで、個人でメディアを持つことができる時代になりました。デザイナー・イラストレーター・コピーライターのプロが吐き出す紫煙の中で創りあげられてきたクリエイティブな世界に、素人が場違いな感覚を持ちつつ遠慮がちに踏み込むことにいたしました。これまでの人生の中で培ってきたことを、WEBを活用して発信してまいりましょう。触れると、触れたその人のデシジョン、意思決定の手順が将来変わるかも知れない、これがひとつの価値ある情報です。米国ではezineと呼ばれます。20代~30代の若い人たちに向けた、団塊の世代からのメッセージです。実は、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘・共感・共有をねらっています。今の言葉で言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

内容的な展開としては、次のように考えています。
第一部:1987年から1988年(転職にいたる背景)
第二部:1988年から1992年(外資でのばくちのバとギャンブルのブル)
第三部:1993年~(世界都市博覧会中止がもたらした反省)
第四部:その後の酒肴/IT業界の人たち

関係各位のプライバシーに配慮して、原則匿名で展開していきます。まずはこのメルマガを発行するきっかけをつくってくれた杉並区高円寺のRINGさんにお礼を申しあげます。

■目次
・プロローグ 成田からの帰路、スカイライナーにて
・父とは違う 日比谷公園にて
・あとがき

◆プロローグ 成田からの帰路、スカイライナーにて

1987年3月25日
今の精神状態は、1975年ホテルのレストランでサービス係をしていた頃と似ている。当時、もうサービス業を辞め教師をやりたいと思った。そのような時に宴会担当支配人に拾われて宴会部販売課に異動。入社して3年、初めて名刺ができた。続いて宿泊部に移った。フロントレセプションはおもしろかった。宿泊販売を希望したがやらせてもらえなかった。営業には向いていないと支配人が評価したのだろう。次に本社に異動。以来宣伝部で8年になる。

今はレストランで働いていた頃と似ている。何か現場に不満を持っている。石田氏の日本法人設立プロジェクトの誘いに乗り気になっている。原宿の会社に見切りをつけて、自分がばか専門になりきる前に辞めたいと思っている。それには第一にこの会社での生活を総括しなければいけない。会社がいやになって辞めるのではなく、自分自身のキャリアアップのために一歩踏み出したい。

人生の折り返し地点で息子たちへ文書で残しておきたい。今彼らに話をしても理解してもらえないだろうから。20年後の参考に。

◆父とは違う 日比谷公園にて

1987年4月8日

毎日考えていること。展望がないこと。振り返れば展望があって、はりきって出社していたころもあった。実に何回かあった。レストランサービスは精神的に辛かった。フロントサービスでは、水商売のおもしろさを体験した。始末書も2回書いた。ホテルの開業宣伝は何回やってもおもしろかった。いつのときも満足できる状況というのは幸福感と同じで、そうではなくなった時に、そうだったと思うものかもしれない。

ひとつの職場にいて、じっと耐え続けていくのは大変なことだ。父はそうやって我慢して横浜税関で30年以上、定年まで勤めあげた人だ。その父の年齢に自分が達している。小学生の息子たちの前で自分は退職を考えている。父とは一緒に酒を飲む機会がいまだにない。自分はそれなりに意地を通してきた。自尊心を大切にしてきた。いつどこででもそうしてきた。このプロジェクトが次のステップと思うなら、潔く踏み出そう。そして子供たちに今の気持ちをいつか理解してもらうために、書き残しておこう。中学、高校、大学、就職、結婚とそれぞれ自分がどう選んできたかを書き残しておきたい。それは父がしなかったことである。父とは違う。

負け犬のようには決して吠えない。静かに潮が満ちてとまり、そして引いていくように力強くそっと小堤さんたちに、渋谷の中国料理店ではMAHALOといいたい。逃げ出すのではない。崩壊を予感して、終わりの始まりを先取りするのだ。きっかけは石田氏がつくってくれた。それが今のわだかまりが何かを教えてくれた。

総括!(時代劇なら成敗!)

30才の見果てぬ夢。40才でまた見よう。この安定を捨ててもいいという高まり。

自分に何ができるのかと自分に問うことが最近なくなった。怠けている。いつも何かをしなくてはいけないという緊張感がなくなってしまった。もう一度何ができるか問うその時が今かも知れない。

1970年日比谷のこの場所で民青に囲まれて逃げ出した。もう逃げたくない。後ろを見て退路があるならひとまず退く。しかしながら、退路がなければそれなりの覚悟をしなくてはいけない。

◆あとがき

学生時代、瀬戸内海の島でキャンプした時、目の前の小島に遊びに行こうということになりました。潮が引いているときは陸続きなので大したことはないと思い軽い気持ちで地元の高校生と並んで泳ぎだしました。ところが、途中から前に進んでいないことに気がつきました。波がなかったのでプールと同じと錯覚しました。潮が流れていることを知りませんでした。かっこ悪かったのですが、余力のあるうちにと思い助けを呼びギブアップ。ようやく島にわたり一休みしたら、潮が引け陸続きになり、今度は歩いて帰りました。

創刊号を準備していて、この瀬戸内海での教訓を思い出しました。すこし余力を残した創刊号となりましたが、欠刊や休刊しないよう、登録していただいた読者の皆さまの期待に応えていきたいと思います。

とりわけ、第四部の「近況(酒肴/IT業界の人たち)」は、おもしろい小話集になることでしょう。腐った林檎が活動中ですから。

次号は9月1日に発行します。

2号 01/09/01

■目次

・日本法人設立プロジェクトへの誘い
・誘いの伏線
・退職の意思表示に向けて
・前夜
・あとがき

◆日本法人設立プロジェクトへの誘い

1987年4月23日

23:00 横浜のファミリーレストランにて。

石田氏より英文の職務経歴書を用意するようにとのこと。

潮が動いた。プロジェクトに参加する。相談はしない。自分ひとりの判断で選び、失敗したら自分ひとりの判断の誤りとして終わる。小学6年生と5年生の息子たちは結果だけを知ることになる。

「自分の発したことばにこだわりを持たない人間に男らしいことばは似合わない。」
「論理をとおすためには孤独を選ぶ」連帯を求めて孤立を恐れずとは違うが。

1987年5月29日

電話で連絡あり。

・時期は東京に事務所を移すとき
・ドイツ本社の了解は得ている

1987年6月25日

日本法人設立のチームに加わるタイミングは来年。まず6月末に退職の意思表示をして8月末に辞めるというタイムスケジュールについて「本国の了解をとってある」とのこと。オファーレターがくるまでは、じっと我慢すること。プロジェクトが潰れた場合の善後策も考えておかなくてはいけない。

◆誘いの伏線

このプロジェクトの誘いには裏がある。半年前に友人から通訳を頼まれたことがあった。赤坂のホテルでドイツ人が日本事務所の代表候補者と極秘で会食をした。この場面で英語の通訳をした。通訳が業界関係者ではないのがよかったらしい。狭い業界で代表人事がもれる心配がない。ホテルマンもプロとして顧客の秘密は守るよう訓練されている。話の内容は重要というより、儀式に近かった。どうもドイツ本社のトップと日本のトップ候補者との間では話がついているようだった。

ドイツ企業の日本法人設立の情報に触れ、キーマンが本社スタッフに自己PRをしている現場に同席した。これが今回のプロジェクトへの伏線であった。後に日本事務所代表アシスタントのポジションがまわってくることになる。

◆退職の意思表示に向けて

1987年6月26日

「本国の了解をとってある」ということで、会社に対して退職の意思表示を早速開始した。管理部門で経理のプロである篠田氏にここだけの話として口頭で辞める気持ちを伝えた。8月末に退職したいので6月末には直属の上司にも告知したいとリーク。

篠田氏は「40才前後が最後のチャンスだ。家族がいて判断したことだろうから何もいうことはない」と言ってくれた。転職は初めてだし、家族にもまだ話していない。ましてや異業種で外資系というリスキーな転職をしようとしている。だが、ハイリスク、ハイリターン、現職にはない実力主義への期待と、バブル全盛に向かっている時代で、これは悪魔の囁きともいえる。甘い蜜の誘惑に逡巡するか、それとも蜜を求めて現職を辞めるか。

急にデスクの周辺が遠くに見えてきた。図書館で本を読んでいる気分、通勤電車に乗っている気分、まわりは関係のない他人、どこかの事務所でだれかを待っているような気持ち。

これからやること。

・転職先は明言しないで、しばらくは充電するといおう。
・今の上司や同僚に将来計画の相談をする気はない。
・職場では、否定的な態度をださないよう注意したい。

気持ちが高揚している。

◆前夜

1987年6月28日 一ノ関から上野へ やまびこグリーン車にて

EE切符2日間JR東日本乗り放題1万円の最終日で混雑している。東京からの往路は非常に混んでいて座れなかった。一ノ関からの復路はグリーン車に乗ったので混雑がわからない。いくら混んでいてもこんな方法をとっていたら辛さも理解できなくなってしまうに違いない。できるものなら辛さや痛みは避けて通り、臭いものにはふたをしておきたい。幸か不幸か、いまだそのような望みは叶っていない。

児島氏の婚礼に出席し祝辞を述べさせていただいた。今後とも長く付き合ってほしいから岩手まで出てきた。仙台営業所に立ち寄り、同期の社員と平泉中尊寺金色堂を訪れた。

この1年、周囲に話しをする仲間がいなくなった。同じ職場の人たちと飲まなくなった。将来の夢を共有できなくなった。展望が開けなくなった。なぜなのか。いつ頃からこうなったのか。この際、退路を断って考えなおすことにしよう。この14年を振返ってどうだったのか。まさに日本法人設立のプロジェクトは「渡りに舟」であった。この弾みを待っていた。

翌日、所属部門の先輩に退職の意思表示。人事に即座に伝わる情報を発信した。

■あとがき

創刊号の発行部数は141でした。読者の皆さま、ご登録ありがとうございました。fwig7930さんから、早速ごていねいなコメントをいただきました。拝読して鳥肌が立つ思いでした。宇宙には銀河系のような集まりがいくつもあって、その中には太陽系や地球と同じ環境の星が複数あるといいます。それと比べれば、日本で、戦後のベビーブームの世代で、同じ教育、同じ時代を生きてきたわけですから、よく似た経歴、人生観を持つ人が何人いても不思議ではないわけですが。しかし、1980年代当時、自分を含めて人それぞれの体験や人生はユニークなものだと考えていました。周囲の人たちと共有できることを探し共存をはかるというスタンスは当時はありませんでした。共通のことばは、明日への期待、自信、希望、可能性といったものでした。

ともかく、休刊・欠刊しないよう努めてまいります。よろしくお願いします。

3号 01/09/08

■目次
・漂泊の想いやまず
・いつも父に相談しなかった
・勝つための3か条
・父と
・あとがき

◆漂泊の想いやまず

1987年6月29日
13:00 所属部門の先輩に退職の意思表示。

「勤務時間中に就職活動をすると懲戒免職になる」とアドバイスを受けた。

1987年7月1日
人事担当者より「退社理由は新しく出直して違う仕事をやってみたいがよい。会社を批判して辞めるのではなく、きれいに辞めろ。」

1987年7月3日
君原氏のひきとめ。「考え直せ。前言を翻してもマイナスにはしない。別の職場へ行く希望があればいってほしい。月曜日にもう一度きくから、週末考え直せ。」

1987年7月6日
西山氏のコメント。「この14年間は表の社会での7年間にしかすぎない。経験としてそれほど鍛えられていない。社内での切磋琢磨がないので競争力が付いていない。辞めるなら、すぐがよい。思いついたら吉日で素早い動きがこれから先の展開を決定していく。チャンスを逃してはいけない。」

1987年7月7日
13:40~14:50
森氏「なぜ辞めたい。会社に不満があるのか」
答え「不満はない。いろいろ感謝している。このチャンスを逃したくない。いつも忙しさにかまけて何かを忘れてしまっている。このまま流されたくない。今非常に自分の年齢を考えている。いま考え直して20年後に考え直したことを後悔することを恐れている。挑戦するなら最後のチャンスだと考えている」

◆いつも父に相談しなかった

1987年7月12日
父の希望にそわない選択は大学入学からはじまった。父母が希望した大学に合格したのに別の大学に入学した。就職の際も、国家公務員の父が紹介してくれた会社にはいかず、ホテルを選んだ。相談せずに就職した。夕方出勤して昼過ぎに帰宅するような勤務に、父は馴染めなかった。定時の出退勤を25年以上続けていた父には理解できなかった。今度は転職を考えている。これも父が納得できない世界だ。

だめなリーダーの下でこれ以上、時間を浪費したくない。耐久レースで勝つためにはクルーを選びたい。いい仕事をするためには、いいスタッフでやりたい。気の合う仲間と仕事をするのではなく、信頼できる部分をもった人と、チームを組み目標達成に向けて、やるだけのことをやっておきたい。

就職し、結婚し、子供ができというこの10年間、一度も父に無心をしなかった。自分なりの美学であった。そういえば、結婚も父の賛成を得ていなかった。

◆余力のあるうちに

今が潮時。このままでいても自分がだめになる心配がある。不平不満で辞めるならどこへ行っても同じだ。今は自信がある。何をやっても負けない気がする。
これ以上、誰にも相談しない。余力のあるうちに。学生の頃、瀬戸内海で溺れそうになったとき、助けがくるまでの体力の温存を本能的に考えた。

◆勝つための3か条

1987年7月28日
日経産業新聞、本田F1チーム桜井淑敏監督

勝つための3か条

1 勝とうという気持ちを一度捨てる。

ドライバーは勿論チーム全体が勝利を目指して全力を注ぐ。しかし勝とうという気持ちが先行すると逆に自分の力をフルに出せなくなる。自信がありすぎても不足してもいけない。勝負を冷静に眺められる目を持ち続けることが大事。

2 信頼は国境を越える。

F1グランプリを目指すのに国籍は関係ない。本田はいったことは実行していく。その中で信頼関係を築きあげた。双方が勝とうという共通目的をもち信頼し努力しあえば国籍は気にならない。

3 全員参加は情報の共有化で。

ひとりひとりのやる気をかりたて、経営の視点でまとめなければ。その鍵は情報を共有化し自分が取り組んでいる仕事の重みを自覚することだ。F1は極限状態で長時間走り続けるためボルトひとつのゆるみも負けにつながる。どこにいても自分の貢献が解かる経営システムが欠かせない。その道具が情報の共有化だ。

◆父と

1987年8月9日
16:30~17:00

父より。

祖父は八王子で生糸をやっていて、大正の生糸暴落で倒産して横浜に流れてきた。父が祖母のお腹の中にいるとき祖父は電気工事で片腕を失くしたが4人の子を育てた。
父は、満州で戦争を体験した。
祖父の血を受け継いでいるのだから、健康に注意してがんばれ。

◆あとがき

米ゲートウエイのアジア市場からの撤退に続き、今週は米HPがコンパックを買収することで合意という発表がありました。このメールはコンパックのパソコンを使い、HPのプリンターで出力していますので、身近な話題でした。

8月28日ゲートウエイのテッド・ウエイトCEOは「我々が勝ち残るには必ずしもグローバル企業になる必要がないと判断した」と語り、日本のパソコン市場から撤退する大手外資では初めての企業となりました。

これもいつか来た道で、90年代初め、長年世界一であったドイツ企業が、米国と日本の企業の影響力がついに本国にまで及ぶにいたり、日本を含む海外子会社を縮小し経営資源を引き上げ、ベルリンだけは守ろうとしたことがありました。

いずれも本国でまだ優勢なマーケットシェアを残している企業だから引き上げるわけで、守るべき市場を持たない企業が、劣勢を挽回するには、新規事業分野/新規顧客開拓が事業の主要な柱となります。

アイスホッケーの試合で、残り時間が少なくなってきた劣勢のチームが、ゴールキーパーを引き上げ、フォワードを1名増やして逆転を狙う戦術と似ています。この場合、守りは手薄になりますので、攻撃の手を緩めたら傷口が更にひろがります。後ろを見たら誰もいないのですから。

それから、最近事業計画達成に関して、180度の転換を図る必要があるといった人がいたのですが、180度の転換は簡単です。

 Just Do It を Just Not Do It で180度転換です。

4号 01/09/15

★★★★★このたび、米国で起きた旅客機を用いたテロの犠牲者に対して、ご冥福をお祈りし、ご家族の皆さまには心よりお悔やみ申しあげます。ニューヨークを舞台にした惨劇が、第3次世界大戦のきっかけとなりませんように。★★★★★

■目次
・ライトスタッフ
・もうふりかえらない
・やっぱりそりが合わない
・正しい応え
・絶対矛盾の世界
・あとがき

◆ ライトスタッフ

1987年7月12日
だめなリーダーの下でこれ以上、時間を浪費したくない。耐久レースで勝つためにはクルーを選びたい。いい仕事をするためには、いいスタッフでやりたい。気の合う仲間と仕事をするのではなく、信頼できる部分をもった人と、チームを組み目標達成に向けて、やるだけのことをやっておきたい。

Right Staff、これも幸せと同じで、失ったときにはじめて分かることかも知れない。

◆もうふりかえらない。

1987年8月10日
11:00~12:50

管理の佐島氏

1 この会社での14年のキャリアは次回の就職チャンスにのみ有効である。

2 金曜に話したことを再検討し月曜日に話を聞くということで留まることを期待していた。留まるにしても、社内での目を我慢してがんばる必要があるが。

3 これからは金を貸してもらえる人にならなくてはいけない。信用をつけなくてはいけない。

反省

1 人を信頼することは難しい。

2 胸のつかえがある。いきを吸っても80%吸いきれず、何かがつかえているような気がする。

3 父にはがんばれといわれるとは思わなかった。もう帰るところはなくなった。

4 人の使い方、話の仕方をもっと勉強しなくてはいけない。今まで必要のなかった部分である。

結論

1 もうふりかえらない。
2 9月15日付で願いを出す。
3 求職活動は8月15日以降にする。
  飲酒を控える。飲んで失言したくないから。

◆やっぱりそりが合わない

1987年8月12日
11:30~11:40

某オーナーの近くにいた方を妻に迎えた黒田氏に言われた。

こんなことにならないよう、短所は直し長所は伸ばさなければならない。嫌いな人間とは付き合わないで世の中わたっていけない。嫌いな人間と付き合うなかで、その人のよいところを見つけなければ仕事はできない。飛ぶ鳥あとを濁さずでやってくれ。

感想

付き合うなかで、嫌いになった。自分がいっていることは、自分の反省として言っているなら許してやろう。百歩譲って、口にだして言っているのだから、何かしら頭の片隅にでもその言葉が残れば、いつか反省せざるを得ないときを迎えた際に、参考になるだろう。黒田氏とは、最後まで核心に触れた話はしなかった。

11:40
森氏に「願い」を渡す。「はい」といって受理。

14:00
デスクにて
黒田氏のこと

ドイツ語や何かを勉強するのもいいが、人間的な面、人との付きあいかた、いたらないところをよく反省して直さないと、また同じようなことになる。今後も同じようなことを何回も起こさないようにしなければいけないなどといってくれた。

感想

1 そりが合わないことが辞める原因と勘違いしている。

2 会社は組織だ。上司の口のきき方がおもしろくないからといって、辞めていたらきりがない。今回の転職にはまず誘いがあった。それを検討して選んだ結果だ。

3 金になるなら、嫌いな人とだって口をきこう。いちいち心を開く必要はない。堀の内の、お風呂屋さんの従業員だってプロとしてのケジメはつけているそうだ。

◆正しい応え

1987年8月12日
17:30~18:00

横浜のゴルフ場にて。

1 会社から自宅に、夫あての電話があった時の、妻の応え

「XXさんはいらっしゃいますか」

「主人は、XX時に戻るといって、外出しました」

(XX時頃戻ると思いますという、不確かな応えをしてはいけない。たとえ、夫がXX時に戻らなくても、それは外出した夫の問題で対応した妻には波及しない。)

2 模範的な妻の答え

本社の課長と、事業所の支配人が入れ替わった。某オーナーが双方の奥さんにご主人の仕事がかわってどうかと質問された。

事業所に移った方の奥さんは「主人の仕事がひまになりました」と答えた。

本社に移った方の奥さんは「前と変わりません」と答えた。

正しい答えは、後者。常に全力投球しているのだから、部長が専務になっても答えは前と変わりませんが、期待される答えだそうだ。

 Do my best as usual as I used to do.

◆絶対矛盾の世界

1987年8月14日
JMAニューズ8/10号

小島直記氏「絶対矛盾の世界を体得する」

剣道について。間合いが大切。相手が強そうだと思えば間合いを広げればよい。そうすれば相手の剣は自分のところまで届かない。反面、相手を切ることができない。間合いを詰めると今度は切られる危険がでてくる。まず自分が切られる。そして、それ以上の打撃を相手に与えるという方法以外に勝つ方法はない。

何かを得るためには、何かを捨てなければならない。

◆ あとがき

37才の方から、コメントをいただきました。ありがとうございます。

奥様もお読みいただいているとうかがい、少し反省しております。本テーマには、父、子、友人、知人、会社関係などの多くの方が登場しますが、家内からのコメントはオリジナル資料には一切ございません。当時、話は何回もしていましたし、共通の友人がいましたので当然状況を理解しているものと考えていました。読者の中に奥様がいらっしゃることが分かりました。巷の、男どもの頭の中はこんなものということで、どうかご容赦ください。お詫びに、「正しい応え」をサービスしておきました。

このメールマガジンの読者から、詳細な日付を記入していることについて当時日記をつけていたのかと毎号発行後に質問を受けます。これは、社会にでて最初にお世話になった会社のオーナーから学んだことです。相手の言葉を、そのままメモに残し、脚色を加えずに報告するというビジネスルールをたたきこまれました。尾ひれをつけさせない報告となります。また、言った言わないのトラブルになった場合、メモを残していた方が有利なのでしょうが、当時は問答無用で、メモを怠ると厳しく叱られました。鉛筆とメモ用紙を持って人と会うことは、体で覚えたものです。いまでも元気にご活躍の某オーナーには時折感謝しています。それから、鉛筆とメモ用紙についても、シンプルな鉛筆と何かの裏紙を使うことが掟のひとつでした。社員ひとりが無駄にする消耗品の額は、10倍の売り上げに相当するという教育(しつけ)を受けました。

5号 01/09/22

■目次

・彼はよい子だ
・語録
・詭弁かも知れない
・美学
・あとがき

◆ 彼はよい子だ。

1987年8月17日

社会人1年生の若い営業マンがきた。
車が好きだというから、顔に傷をつくるな、事故に気をつけるようにと言った。
仕事でこきつかわれているといったから、自分の為になるのだから、ぐちってはいけないとアドバイス。彼はよい子だ。名のある会社でのハードワークは本人の為になる。ただし健康をそこなったら勝負は負けとなる。

そこで、会社の小話をしてあげた。「要領が悪く、また昼間は雑用やら、喫煙やらで席をはずしあまり能率が上がらない社員がいた。彼の評価は悪くない。朝、一斉に仕事をはじめると、周りは夕方にはかたがつくのに、彼は終わらない。仲間はそこそこの時間に飲み会などで退勤する。彼は仕事を片づけるまで、帰らない。次の朝、昨日の仕事は完了している。始業時間になると、また仲間と同じように新しい仕事に着手する。昨夜と同様、周りは終わっても彼の仕事は定時では片づかない。毎晩、深夜まで仕事をする。そして翌朝になると、また、横並びで仕事をスタートする。単位時間当たりの処理能力が劣るのなら、処理時間を増やせば解決する。同僚より多く時間をかけて、要領のいい人と同じ量の仕事をこなす。この人が生き残る条件はただ一つ。健康であること。連日の長時間の勤務に負けない体力を維持できること。」

◆語録。

机の中を整理していたら、毛沢東語録の社内版が出てきた。

1987年3月17日

1 女子社員の婚礼はグループの事業所でするよう上司は指導すること。他社の会場での婚礼出席は休暇をとって出席すること。

2 女子社員の採用は謝恩会をグループの事業所でやってくれる学校から。

1987年4月2日

質問

初めて取引する会社に対して、担当者としてどのように対応しているか。

正解

1 良いものを安く早く正確に。
2 発注の見返りとして当社施設を利用していただく。
3 業務上の情報収集について協力を要請する。
4 当社グループのちがいを理解していただく。
5 金のかからない付き合いをする。

1987年4月7日

1 土日の使用について。週休2日制は70年4月1日より実施。一日は自己研修にあて、残りの年間48日間は事業所見学をすること。

2 若いときに一所懸命にやっておかなければ歳をとってからだめになる。

3 当社の禁煙キャンペーンはマスコミに定着した。今後はゴミのない事業所にしていく。

1987年6月23日

1 4年制大学

女子社員は4年制大学の採用に力を入れる。学卒の実家は良いので当社の施設での婚礼が期待できる。

2 取材について

広報の立場:書きたければ書いてよい。ただし取材には応じない。

◆詭弁かも知れない。

1987年8月21日

都内事業所の大宴会場で食中毒発生。某週刊誌に幹部社員のスキャンダル記事。直接の当事者は勿論だが、責任を問われる人がちがった。事故を起こした社員を採用した事業所の当時の責任者が責めを負った。このような社員に育てた責任を問われた。社内では、事故を起こした事業所のトップは「おとがめなし」。あの方は、事故を起こした社員とその事業所を開業した当時のトップを成敗された。

これは、正しい経営判断かも知れない。社員採用の責任と、社員教育の重要性を教えている。事業所の現職トップを守る詭弁かも知れない。

◆美学。

1987年8月24日

学生時代、先輩から学んだこと。攻めるときは、壁の厚いところを狙う。守りの手薄なところとか、弱い部分を攻めて突破するのは、物取りにしか過ぎない。全力で最も厚い壁にぶつかり突き破る。これが攻めるということだ。ノーマークで漁夫の利を得ることを潔しとしない。美学だ。

1987年8月25日

コピーライターの根木さんに「おめでとう」といわれた。この言葉はこの人からだけだった。私はがんばる。機会があれば、一緒に仕事をしよう。

◆ あとがき

ニューヨークのビルの87階にオフィスがあった会社に勤務していた日本人行方不明者が、不幸にも大学のクラスメートであることが、分かりました。ニュースで名前がでた翌日、彼の件で、自宅に読売新聞の記者から電話がありました。個人情報の検索力に驚かされました。いまだ、消息不明です。もう10日以上になります。これ以上のコメントを控え、無事を祈ります。

6号 01/09/29

■目次

・続 語録
・カメラ
・やっと会えた
・米国行きは認めない
・まわりの皆の一言
・あとがき

◆ 続 語録

上司との付き合い
アルコールが苦手な社員をお開きまで宴席に残すため。
「酒は飲めなくても、酒は朝までつげるだろう」

◆カメラ

1987年8月26日 16:30~17:00

カメラマンの太田氏と会い、退職を伝える。
彼からの、海外出張やレポート作成時のカメラ使用についてアドバイス。
「カメラはEOSとかキャノンAE-1がよい。バッテリーは予備を用意すること。レンズはワイド1本、24mm、F=2をすすめる」

◆やっと会えた

1987年8月28日 17:40~17:50

箱崎のTCATで、やっと転職先の責任者に会えた。

1年ほど前、初めて通訳として同席したときとでは、この人物の雰囲気が変わっていた。あの時の彼は、ひたむきな面が前面に出ていた。この人に長年仕えている田川氏が一緒に来ていた。彼は、エスカレータを上がっていくボスを見送るとき、目を赤くしていた。ボスは2週間ほどドイツ本社へ出張のため、ルフトハンザに乗り込んでいった。田川氏はいつもボスのそばにいて、ボスが転職、転居すると、彼に従い転職、近くに転居した。

ほんの僅かな時間であったが、ボスのコメント。

「すべて、きちっとやる。心配するな。顔色が悪い。体力をつけなければだめだ。」

19:00~24:00
六本木で職場の有志が壮行会をやってくれた。休日なのに7人がきてくれた。トラベルセットをもらった。二次会は渋谷で、飲んで歌った。

◆米国行きは認めない

1987年8月31日 13:30~16:00

西麻布にて海外ロケの打ち合わせ

つぎの就職時期は来年、東京に事務所を開設する時、信用でき英語が分かる人間として参画というシナリオは、先方の副社長が了解しているとのこと。それまでは、充電期間。まずは9月9日から1ヶ月米国カナダでのビデオ撮影の仕事にフリーの立場で参加する。担当ディレクターの朝倉氏と会った。彼とは、ここ数年、広尾や麻布のスナックで何回か一緒に飲んでいた。海外ロケは事前の打ち合わせどおりには進まないそうだ。その場での柔軟な対応がすべてを決めるという。

18:00~18:30
日比谷にて

来年東京に事務所ができるのを待って退職するのはメリットが少ないと判断した。9月9日から米国にいき1ヶ月滞在することにより少しは国際感覚が身に付くだろう。少なくとも20数年前にあこがれた米国に行くのだから。本当にうれしい。苦労はするだろうが、今までやり残してきたことができる。素直に喜びたい。フレキシビリティを学び、異文化に触れる。

1987年9月1日 13:30~14:30
上司より

「退職前、在籍中の海外旅行は認めない。海外で事故があったときに会社の名前がでる。有休は9月7日から12日とする。14日は出社、16日は社内挨拶回りをすること。」

◆まわりの皆の一言

・原宿の歯科医「会社をつくるのは大変だ。今までの5倍も仕事をしないと間に合わない。」

・電通の参事「西独のCEOは短気だ。米国は、米国で良いものは日本でも良いはずだと考える。西独は相手国の国内事情を考慮するそうだ。」

・赤坂の支配人「化石のような顔をしている。もう周りに無関心。今後は自分から連絡してこないと会う機会もなくなる。」(業務多忙や事故やらで連絡を遠慮していたら先輩の機嫌を損ねた)

・取締役課長「24時間働くつもりでやれば何とかなる。その分、時間も作れる」

・人事部長「仕事をとったら、その期間だけ人を雇い入れればよい。固定費は少ないほうがよい。」

・元同僚「ヘッドハンティングは罠かも知れない。今の職場から追いだすための。」

・フィクサー「転職先のことは企業秘密として口外しない。当面は、フリーでマスコミ関係の制作をやることにする。」

友人からのなぜ辞めるのかの問いに、いま答えられること
「レースで勝つためにはピットクルーを信頼できる人間で固めたい。それが今の会社ではできないから辞める。」

1987年9月16日

会社で退職の挨拶回り。
職場のトップから、8年間で初めて食事の誘いがあった。忙しい中、時間を空けてくれた。明日からフリーだ。今後この人との、付き合いはないだろう。

断った。

◆ あとがき

米同時テロ、日本人死亡初めて確認の記事が昨夜28日夕刊に掲載されました。故高橋啓一郎氏は、1968年から4年間同じキャンパスで学んだ同級生でした。故人のご冥福を祈り、友人たちの想いと合わせて、ご家族の皆さまにつつしんでお悔やみ申しあげます。

7号 01/10/06

■はじめに。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。

このメルマガは、20代~30代の若い人たちへ向けた、団塊の世代からのメッセージです。また、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘のアピールでもあります。今のことばで言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

■目次

・いまでも夢に
・第1日目
・自宅にて
・年内充電
・あとがき

◆いまでも夢に

1987年9月16日 10:40 本社4F

常務より。

辞めて何をする。

いつから話があった。突然聞いてびっくりした。

給料をいくらもらっていた。この会社にいればあと3~4年で1000万もらえるようになる。

何年いた。今後は自分が失敗すると何年もついてまわる。そういう人間を何人も見てきた。2~3人ではなく何十人も見てきた。実印を持つのだから気をつけてやれ。

いくつだ。そういう何かしたい年代なのだ。この部の中で外にでて何かができる人間がいたのか。

健康に気をつけてがんばれ。

この人には、いろいろなことを教えられた。社員がオーナーに接するときの作法というかオキテとかいうものを学んだ。今でも、この人が夢にでてくる。目が覚めてほっとする。目がさめなければ、ずっと叱られているだろう。

◆第1日目

1987年9月17日 16:00

無職になって第1日目。新車で買ったトヨタのミッドシップMR2を11ヶ月、1万キロで手放した。4人家族、子供2人。休日のドライブには、MR2と同時にリースで手に入れたスバルR2を使った。MR2は、家族や友人と1対1の付き合いをするときや、気分転換で単独ドライブに使った。2台を手放した。替わりに、友人が会社の車を、ガソリン代込みで貸してくれた。左ハンドル、3ナンバーのBMW。車載電話もあった。

好きな車に乗るために、いままで仕事をしてきたようなものだった。これから、もっといい車に乗られるのなら、と転職に踏み切ったのかもしれない。

14年間のしがない勤め人がリフレッシュ休暇をとるわけで、ヤクザな世界に踏み込んだ気がした。さっそく、第3京浜で、速度違反。いままで郵便局には何回か振込みにいったが、幸い人身事故は起こしていない。200KMが簡単に出る車で走る80KMの感覚はスバルで徐行しているようなものだ。

初日は、2台の車を手放し、1台レンタルし、国庫に払う伝票をもらった。

◆自宅にて

1987年9月19日

会社を辞めて自分を取り戻した気になっている。ゴマをすったことがない自分が、ゴマをすることを生業としているような輩と、ゴマをすった量を競ったら、負ける。自分は仕事がしたい。しかし、だめな人間のかさ上げのために、使われているのだとしたら留まる必要はない。いさぎよく、出て行きたい。ひとりでは何もできない。だが、仕事は選べる。

この間の、いきさつを子たちに話していない。ただ、会社を辞めたことだけ。子は父の背中を見ているというが、自分の背中には何と書いてあるのだろう。いままで、言葉に責任を持って行動したいと願ってきた。前言撤回は慎んできたつもりだ。撤回すると信頼を失う。逃げたり、言葉を翻したりするのは、美学に反する。

今その時を迎えている。目の前に面白い仕事のチャンスがある。見逃して三振したら、悔いが残る。あわやヒットという当りでアウトになった場合は、次に再びチャンスが来るかもしれない。

◆年内充電

1987年9月22日 15:30~17:00

西麻布にて。

ドイツ本社のオーナー社長が急死した。

オーナーファミリー内部でお決まりのもめごと。日本法人プロジェクトは、副社長が担当している。自分がこのプロジェクトに参加する件については、副社長は了解済み。彼は、ファミリーではないが、実力、人望ともに問題なく、ファミリーに受けがいい。しかし、未亡人が顧問弁護士を次期社長に推薦している。

1月1日よりの新年度、現副社長が降格または社長にならなかった場合、プロジェクトは消滅する。新年度、副社長が政権を掌握した場合、6月をメドに事務所を東京に開設する。

すべては、現副社長の進退により事が運ばれる。したがって、年内は何も動かない。

年内、充電が決まった。

◆あとがき

今週は、身の回りで、気になることが動きはじめ、二日酔いが2回。久しぶりに電車にのっているときに気分がわるくなったり、食事のときに箸がふるえたりしました。長嶋さんが退任したり、高橋さんがベルリンで世界記録を出したり、いろいろあった1週間でした。

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8号 01/10/13発行

■はじめに。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。このメルマガは、20代~30代の若い人たちへ向けた、団塊の世代からのメッセージです。また、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘のアピールでもあります。今のことばで言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

■目次

・年内充電
・毎日が日曜日
・第1関門突破
・疲れたら休めばいい
・あとがき

◆年内充電

1987年9月22日 15:30~17:00西麻布にて。ドイツ本社のオーナー社長が急死。日本法人プロジェクトは、スイス人の副社長が担当している。自分がこのプロジェトに参加する件については、副社長は了解済み。しかし、未亡人が顧問弁護士を次期社長に推薦している。1月1日よりの新年度、現副社長が社長にならなかった場合、日本法人プロジェクトは消滅する。副社長が政権を掌握した場合、6月をメドに事務所を東京に開設する。すべては、現副社長の進退により事が運ばれる。したがって、年内は何も動かない。

年内、充電が決まった。

◆毎日が日曜日

1987年9月23
日終日、上野動物園で過ごした。
9月26日
一日中、TDL。Eチケットの乗り物に9回乗った。
9月27日
朝4時に起床。6時半に木場につき、上馬の先輩のモーターボートに乗って、ハゼ釣り。息子を連れていった。幼稚園の頃、初めて父と金沢八景の平潟湾でボートを借りて、ハゼ釣りをしたことを思い出した。あの頃は、1束とか2束とか釣れた。それを天日で干して、保存し、甘露煮にして正月に食べていた。平潟湾がPCBに汚染されて以来、父とのハゼ釣りは絶えていた。久しぶりに今度は、自分が息子たちとハゼ釣りをした。先輩は、餞別だといって、ゴカイをプレゼントしてくれた。モーターボートは、体力と時間がかかる遊びだ。車とちがい、いつもきれいに保つのは、難しい。汚れた河や海に出ると後始末が大変だ。
9月29日
大学時代のクラスメートからはがきが届いた。「昔話をする時間があるだろう」と書いてあった。
10月7日
3泊4日の韓国旅行に誘われた。一緒に韓国行きのビザを申請しにいった。10月16日 11:30~13:00
関内にて。半年ほど前に、同じ職場を辞めた同期に会った。彼は、当時の上司にかなりの精神的な苦痛を与えられたようだ。靴下の指が抜けるほど我慢と怒りを感じたそうだ。怒りを我慢しているとき、足の指に力がはいり、靴下が破けたそうだ。サッカー選手だった。今は当時よりずっと若い顔をしている。

10月21日 8:35
自宅にて。私は年内何もしない。やることはすべてやってあとは待っているだけ。ここまできた以上、年内は我慢することにした。この間に、忘れていたものを呼び覚まし、足りないものを補うこと。3ヶ月というのは長い。1ヶ月が過ぎた。何をしたかと振返れば、家のなかを整理しただけ。壁紙を張替え、洗濯機と冷蔵庫を買い替えた。来年からに備えてそろそろ動き始めよう。図書館に行こう。まだ行ったことがない山陰に行こう。雪が降らないうちに。

◆第1関門突破

1987年11月4日 10:30
電話連絡。副社長が会長に就任。38歳とのこと。

11月5日 18:20
渋谷にて。昨日から動き出した。また、眠れなくなった。風邪気味だったが、もう怠けてはいられない。動き出した。9月中旬から2ヶ月弱待った。ただじっと我慢してきた。男らしさの美学しか今の自分には表現できない。先方は試しているのだろうか。14年半、しがない勤め人として安定した毎日を送ってきた。我慢できなかったのは、知的レベルというか知的関心を共有できなかったことだ。大学の続きを会社に求めるには、職種を誤った。先輩たちの赤線Zのイデオロギー闘争に、違う世界を感じ、イデオロギーとは無縁のサービス業を選んだ。現場にいる間は満足していた。本社に移って、何か違う政策決定プロセス、意思決定の空気を吸った頃から、学生時代の気持ちがよみがえってしまった。これからは、気を張って時間を無駄に使わないようにしなければいけない。待つことによって、第一関門を突破した。

◆疲れたら休めばいい

1987年11月9日
待つことによって、第一関門を抜けた。次はプレゼンテーションで自己PRだ。ヨーロッパのまだ見ぬ経営者たちに対して、極東の経営権を託されたとき、限られた地平で極限を追求したい。実務レベルでの作業より、もっとクリエイティブな部分で充電をしておきたい。この2ヶ月間、いろいろ考えることもあったが、何よりも訓練したのは、じっと待つことだった。時を待つということは心理的に不安をともなう。不安になって動きまわってもよい結果は生まれない。常に一定の水準を保って、健康で気力のある状態を作りだしていかないと負け続けてしまう。名前は忘れたが、ブント系の先輩が「疲れたら休めばいい」といっていた。Z系の先輩は大衆運動主義とか日和見主義などと批判した。休むのは逃げていると。今は「休めばいい」というより、すべてに勝つことはないと考えている。3回に1回勝てば、殿堂入りだ。20%の犠牲を払って80%の勝利を得るより、勝つときは100%、負けるときは、いかに負けるかを考え始めている。負けるときは、次につなげるためにダメージは少なく、勝つときは徹底的に勝つ。勝つためにすべてを尽くした人は、休むことができるのだろう。全力を出していない者には、心地よい疲れがやってはこない。

◆あとがき

毎週金曜日はメルマガ読者の期待に応えなければと、緊張します。アフガンの空爆が始まり、多くの企業が海外出張や、飛行機に乗ることをやめています。湾岸のときもそうでした。当時、青山にある商社マンと仕事をしていましたが、彼らは海外出張が認められず、私は単独で、アトランタに行ったことがありました。そのとき現地で渡された入館証には、OPERATION DESERT STORM SUPPORT OUR U.S. TROOPSというキャンペーンバッジがついていました。

次号は10月20日に発行します。

9号 01/10/20

■はじめに。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。このメルマガは、20代~30代の若い人たちへ向けた、団塊の世代からのメッセージです。また、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘のアピールでもあります。今のことばで言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

■目次

・疲れたら休めばいい
・事業計画作成
・メーキャップ
・アルバイト
・あとがき

◆疲れたら休めばいい

いかに負けるかを考えていると先輩がいっていた。自分は敗戦処理を経験したことがなかった。大企業の本社にいたから、会社が負けることを意識することはなかった。これからは、勝つときは100%、負けるときは、いかに負けるかを考えることが必要だ。負けるときは、次の勝ちにつなげるためにダメージを少なくしていかなければいけない。勝つときは徹底的に勝つ。疲れたら休めばいい。勝つためにすべてを尽くした人は、心地よく休むことができるのだろう。

◆事業計画作成

1987年11月13日14:00
西麻布にて。ドイツ本社の副社長(次期会長)が来日する。長年日本のマーケットにさわってきたディストリビュータの成績が良くないので、本社はライセンス契約を延長せず、100%子会社をつくろうとしている。日本のディストリビュータはライセンス契約の延長を願っている。今回のプロジェクトは、ライセンスを取り上げ、子会社をつくり増益を狙うものであり、当然水面下ではグレーな部分がうごめいているだろう。ドイツのYRがマーケティングを担当している。日本の窓口は電通YRだ。メンバーがそろうまでの間、法人化プロジェクトの受け皿となっている。

1987年11月16日~21日9:00~20:00
西麻布にて。子会社設立準備室の代表から指示を受けた。代表の基本的な考え方。

   安いものから高級ブランドへ。
   地方から都市へ。
   子供から大人の商品へ。
   まず商品を店頭に並べること。一番宣伝効果がある。

事業計画書を英文で作成する。電通YRには参考資料のみを依頼する。事業計画は代表がつくる。英文計画書作成が当面の仕事になった。代表は英語が得意ではない。毎日、西麻布で過ごした。

1987年11月21日 17:00
計画書が完成した。代表より「23日から1週間、ドイツへ行く。早く体制をつくりたい。現状があまりにもひどいので、参加するのが嫌になったと思わないでもらいたい。」

◆メーキャップ

1987年11月30日 16:45代表からポジションを伝えられた。1 ハードウエアプロダクトマネージャー2 アドバタイジングマネージャー

条件

1 工場から一目を置かれること。
2 現ディストリビュータとの戦いにおいて精悍さを持つこと。
3 明るく。(長く待たされると暗くなってしまう)
4 ドイツ人は体が大きいので、大きく見える工夫をすること。

善後策

1 ポジションは、問題ない。プロダクトマネージャーの責任は生産から販売まで広い範囲にわたる。

2 暗さ。待つということは辛いのだ。

3 精悍さ。理論闘争、派閥闘争。久しぶりだ。プロジェクト立ち上げの戦いは望むところである。

4 ゴルフスクールに通い、ゴルフを基礎から学ぶ。欧米でそれなりにコースをまわれるように。

◆アルバイト

1987年12月2日 12:00~13:00
芝公園にて。次の職場はスポーツ業界だ。異業種への転職となる。就職までには時間があるので、エンドユーザというか小売店の業務内容を勉強することにした。大手スポーツ用品チェーンの会長が義弟という先輩に斡旋をお願いした。先輩に、「西独のスポーツメーカーに転職することになったので、事前に業界のことを勉強したいのでお世話になりたい」と、今回のいきさつを説明した。彼は二つ返事で義弟である業界の有力者を紹介してくれた。

23:50 代表に確認をとる。
回答:問題ない。ただし、法人化の件は企業秘密にしてほしい。大手スポーツチェーンの会長の影響力はビッグなので、商権をとりあげる「XXXおろし」が相手に漏れるとドイツ本社の人事に影響してしまう。脱サラでスポーツショップをやるのでその勉強ということで受け入れてもらってほしい。

1987年12月3日 15:00
大手スポーツチェーンの会長と電話にて。

1 内密という話は理解した。
2 代表のことは良く知っている。ドイツの動き、現ディストリビュータの業績悪化も知っている。
3 無報酬は社内で前例がないので、アルバイトでやってもらいたい。
4 内容を人事に伝えておく。

16:00人事担当者に電話。面接アポ。

1987年12月5日 11:00
面接。時給600円、交通費300円で12月6日から31日まで働くことにした。無報酬ならカッコ良かったのだが。脱サラで、独立して店を始める修行の様な気がしてきた。
To be continued.

◆あとがき

このメルマガを連載し始めてから、毎週金曜の夜にむけての調整を心がけるようになりました。大学1年の頃、必須の集中英語コースがあり、通常の授業とは別に、毎週1冊ペーパーバックのアメリカ文学を読むことが課題でした。この本の内容に関しては授業ではまったく話題になりません。ただし、毎週金曜日の午後、本の内容について口頭試験がありました。試験の後、次回の本が指定されました。当時の校風では、1デート、2クラス(勉強)、3バイト、4クラブ活動が優先順位でした。したがって、週末は読書なしで、水・木の夜中に集中して読んでいたようです。これが1年続きました。

あの頃と同じで、いつも金曜の夜の締め切りを気にしているのですが、計画的に準備することができません。クリエイティブな活動は、計画的とか時間があるときにやるとかいうものとは、無縁であると言い訳しています。このメルマガの内容は、すべて1993年4月に書き上げた覚え書きの抜粋なので、創作活動というほどのものではないのですが、読み返しているうちに未熟さを反省したり、またこんな「たわごと」を毎週読んでくださっている皆さまがいらっしゃることを、うれしく思ったりしています。本当にいつもありがとうございます。なお、現在第1部です、これから第4部まで続きます。第4部の対象は現職になりますので、現在取材中です。ご期待ください。

次号は10月27日に発行します。

10号 01/10/27発行

■はじめに。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。このメルマガは、20代~30代の若い人たちへ向けた、団塊の世代からのメッセージです。また、同じ思いを胸に秘めた同世代への共闘のアピールでもあります。今のことばで言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

■目次

・常に失いつつ、何かを積み上げているだろうか。
・広く浅く、そしてハッタリ。
・年末・年始
・紙袋はシルバーからホワイトに。
・あとがき

◆常に失いつつ、何かを積み上げているだろうか。

1972年9月1日

作並温泉にて卒論準備。
かつて私は最上級の信頼でもって心からの不信を表現しようとしたときがあった。だが、実際には自分を偽ることは得意ではなかった。不信は常に自分を表面に出すことを要求した。私にとって、いまは、望みはどこかに消えていき、残るのはただ無関心と冷たさになった。どのようなものにも心を動かされないという気持ちである。感動が行動を導くことは久しくない。そのことが、自分らしくない行動をもたらしている理由となっているかもしれないが。今はただ、内に燃えた炎の懐かしさをおもい、すでに異物となってしまったような高揚した感覚を思い出しては、現在の言い訳を探している。

常に失いつつ、何かを積み上げているだろうか。自分を怪物のように見ることはできない。昔からそれほどのことはしてきていない。そして今後もないだろうが。徐々にではあるが、炎が変質してきている。量は質を変えていくようだ。

内に秘めたる炎の人よ、世界のために立ち上がれ。

◆広く浅く、そしてハッタリ。

1987年12月5日

異業種への転職に向けて、まずエンドユーザの理解を得て実習を始める。自給600円で20代の若者にまじり、店頭で来年から製造販売責任をもつ製品の販売現場を経験することにした。

1987年12月11日11:50PM 自宅に代表から電話。

(1)カバンについて
納入先、素材、仕入れ価格、販売価格などすべてについて調べること。

(2)ゴルフクラブ、ボール、バッグ、手袋、シューズなどゴルフについてすべて。

(3)サッカーボール、バスケットボール、テニスのラケットなどブランド名などを把握すること。

(4)以上のことについて広く浅く、しかし質問されたら、こいつは良く知っていると思われるようハッタリをかませることができるようにすること。

(5)何をしたらよいかはっきりしたのだから、寒くて大変だろうがしっかりやってくれ。年内に一度会いましょう。

1987年12月12日

13:30頃、初めて立ちくらみを経験。

1987年12月16日

調査費としてもらった30万で、テニス、サッカー関係の調査を知人や弟に依頼。電通をやめて独立した田川氏と会食、スポーツ業界に関する基礎資料を収集。手数料17.65%を支払った。

◆年末・年始

1987年12月31日

20時過ぎまで店頭販売、その後、慰労会が店内であった。若い店長に本日でアルバイトをやめることを伝えた。短い実習を終了させた。22:00 BMWにて。代表は12月29日から1月10日まで北京。指示:ドイツの幹部との面接の際は、大きな態度で会えるよう準備をしておくこと。

1988年1月1日6時50分。

息子二人と、三浦海岸で初日の出を迎えた。

初夢:代表とドイツ本社の誰かと、面接の下準備。「小売の経験は何がよかったか」について回答する。

◆紙袋がシルバーからホワイトに変わった。

1988年1月8日17:00~17:20 

大手スポーツチェーン会長室会長と会い、15日間の店頭での実習レポートを提出。代表はこの会社の新入社員に講義を2回したそうだ。ロマンチストとのこと。今回失敗するとまたかといわれ、彼の価値はなくなるだろうといっていた。代表の前回の失敗を知らされていない。会長にひとつアドバイスをした。紙袋がシルバーだか、これはホテルでは法事用の紙袋だ。通常のにぎやかな紙袋とは別に用意していると伝え、色の変更を提案。(その半年後、シルバーがホワイトにデザイン変更されたのに気がついた)

19:00 芝公園ラスベガスのホテルに転職を決めた先輩と食事。明日UAで米国へ発つ。彼は昨年の夏、今の会社にいたら、専門バカではなくてバカ専門になるぞと警告し、転職に賛成してくれた人物。後輩に警告したときすでに本人は米国行きを決めていた。

1988年1月12日19:00

西麻布にて。「1ヶ月ゴルフを勉強してほしい。不安なこともわかるががんばってほしい。」

1988年1月13日

横浜のゴルフ練習場で支配人をやっている先輩に会い、ゴルフスクールに50%引きで入れてもらい、30%引きでゴルフ用具一式を買った。前の会社の先輩は、何も聞かず転職の前祝をしてくれた。

◆あとがき

先週末、長年通っているバーバーに行き、マスターが70歳を超えたことを知りました。マスターとは、社会人になって以来の長いつきあいです。マスターが品川の店に来てから30年を越えました。新入社員の頃から現在まで、結婚、子供、転職、海外出張、バブル崩壊などいろいろありましたが、どこにいても月1回2時間近くお世話になってきました。ドイツにいたときは、成田から直行しました。神戸から新幹線で散髪のために往復したこともありました。でも、このメールマガジンには、マスターは登場しません。それは、マスターには相談していないからです。マスターにはいつも事後報告。成功したときは、喜んでもらい、落ち込んでいるときはなるべく元気そうにしてきました。「あんたは、バブルの時にいい思いをしたんだから、それでいいじゃないか」とよくいわれます。マスターの奥さんには、「母の日」とか季節の変わり目とかに花束をプレゼントします。奥さんは、第2部で登場するマーガレット・サッチャー女史のように、若いときは、さぞ美人であったろうとだれもが思うような方です。職場が変わり、時が移っても、バーバーだけはいまだ替えていません。まだまだ、マスターと奥さんには現役を続けていただきたいものです。

次号は11月3日に発行します。

11号 01/11/3発行

■目次

・自律訓練法
・小では大を兼ねることが難しい。
・面接は3人。
・あとがき

◆自律訓練法

1988年1月13日

横浜のゴルフ練習場にBMWで通う。失業中だが一時的に不労所得者のような気分ここで必要なのは、規則正しい生活による心身両面の健康管理だ。

自律訓練法

自律神経には、ストレス時に強く働く交感神経と、緊張をときほぐす副交感神経がある。副交感神経が働くと、体もリラックスできる。そこで意識的に副交感神経の働きを高める方法が自律訓練法である。1日3回毎日欠かさず実行する、費用は0円。所要時間は2~3分。

1 椅子に深くかけ、両足を床につけ、肩の力を抜く。
2 目を閉じ、気持ちが落ち着いていると自己暗示をかける。
3 落ち着いたら、両手足が重たいと暗示をかける。
4 次に手足が暖かいと暗示をかける。
5 両手を握り、ゆっくり開く。これを3回くりかえす。
6 大きく背伸びをして深呼吸を3回。静かに目を開く。

神戸の鬼塚さんがやっているアシックスという社名は「健全な精神は健全な身体に宿る」とかいうラテン語の頭文字をとったものだと聞いた。

◆小では大を兼ねることが難しい。

1988年1月14日
銀座 18:00~19:00

友人がやっている小さな会社に去年の夏まで机を並べていた若い人を紹介した。小さな会社なので、大企業とは違う時間の拘束や責任感を強調していた。小グループだと社長のカラーが直接出てしまうともいっていた。私は若い社員に夢を与えるのが経営責任を負っている者の使命だと感じた。

大企業で受けた教育は小企業では受けられない貴重な体験にちがいない。50室のホテルを担当しているホテルマンは、宴会・宿泊・レストランのすべてを知っている。しかし、彼は1000室のホテルでは、大きな団体のチェックインや、1000人前のステーキを同時にサービスした経験がない。小さなサイズでの高品質なサービスは個人の工夫と努力で可能かもしれない。しかし大きなスケールでの均質なサービスは、それなりの組織的な動きと教育が要求される。会社の規模が大きくなるときに、大きなサイズを知っている者が役に立つかもしれない。自分の再就職、長男の中学受験など、他のことにはかまっていられない状況ではあるが、先行投資は必要なことだ。この会社に喜ばれることができればいい。

◆面接は3人

1988年1月20日
19:00~20:00 西麻布にて。

面接の相手を知らされた。3人。会長、上級副社長、貿易担当。彼らとの面接で重要なこと。

1 自信を持った迫力、積極性。消極的ではだめだ。

2 マーケティングマインドがあること。マーケティングに興味を持っていることを示すこと。

3 ミスをしない限り大丈夫。ミスとは消極的であること。知識がないこと。

いままでは秘書として副社長時代の現会長に推薦していたが、今度は地位と力を持った人間として推薦している。全く別人として紹介する。積極的な仕事になる。ハードウエアは、バッグ、テニスラケット、ゴルフ、サッカーボール、アクセサリーだ。全部自分でやらなければならない。

◆ あとがき

最近、女性の上司が部下の男性をxx君と呼んでいるのを耳にしました。また、年配のもう脳力が大分くたびれてきた役員が少し年下の部下をxx君と呼んでいます。この二つの光景は自分にはなじめないものです。

高校2年のとき、ひとりの先輩からxxさんと自分のことを呼ばれて以来、年齢に関係なく、相手をxxさんと呼ぶことにしました。就職して、最初の職場は、徒弟制度が掟の世界だったので、チーフとか課長とかと呼ぶよう、よく叱られました。しかし、子会社から本社に移籍したとき、今度は肩書きで呼ぶなと教育されました。普段、肩書きで呼び合っていると、それがついお客さまの前でも出てしまうので、それを防ぐためと説明されました。「さん」がその後の主流となりました。でも、子会社では、相変わらず、肩書きを使っていました。今どうなっているか知りませんが、どうもスケールが小さいところほど、肩書きが飾りになっているように思えてなりません。

六本木に本社のある会社出身で慶応ボーイの藤井さんは、六本木の社風を引き継いで「さん」を使っています。不思議なのは、同じ会社出身のW大卒で神童といわれたであろう種嶋さんは「君」を使います。国会では、議長は先生方を「君」で呼んでいるので、議論好きなご本人は職場の議長のつもりかもしれませんが。議員ではないので、個人的には、君と呼ばれたら、返事をしなくてもいいと思っています。

次号は11月10日に発行します。

12号 01/11/10発行

■目次

・新しい役をもらい、それを演じること。
・リハーサル
・顔合わせ
・ハッタリ

◆新しい役をもらい、それを演じること。

1988年1月29日
18:45 電話にて。

2月11日18:00からドイツ行きの打ち合わせをするので出席してほしいとのこと。代表の人柄が気になっている。嫌ならやめればよい。そうでなければ、それを通すしかない。気にしているとそれが出てしまう。

新しい役をもらった。それを演じることだ。代表は、いい人という役にしておこう。この4ヶ月間、何をやってきたか。振返れば、それなりにやっているのだ。2月の面接は楽しみだ。それまでに多くの人に会って、話をする勘を取り戻しておかなければいけない。

◆リハーサル

1988年2月11日
15:30~16:30 西麻布にて。

2月24日3人で西ドイツへ行くことになった。同行の二人の略歴。テキスタイル担当は同志社、テニス部、22年生まれ。

プロモーション担当は現体協国際広宣課長、順天堂大、20年生まれ。ドイツの会長の学生時代の柔道の師、西ドイツで柔道教師を7年。ドイツ人と結婚。

誰に会うか:会長、ハードウエア担当ディレクター。

何を聞かれるか:この会社を選んだ理由、どんな仕事をしてきたか、清潔で積極的な人間であるか。

1 なぜ

大手スポーツショップの会長から代表を紹介された。代表にあって、ぜひ一緒に仕事をしたいと思った。世界一のブランドがなぜ日本で一番でないのか理解できない。立ち直らせることは可能だ。

2 現ディストリビュータについて

評判は悪い。サービスはよくない。ライセンシーをきちんとコントロールしなければだめになる。この日本の会社は、ライセンス契約で生き延びられるかもしれないが、ブランドホルダーのためにはならない。小売店の評判はよくない。社内体制は古く、革新的ではない。この会社がかつて日本一になったことがあるとは信じられない。

3 待遇について

自分はファイターなので行けといわれればどこへでも行く。年俸はxxxx万を希望する。今は契約上、日本の会社の力を借りるがいずれ100%子会社を設立して大きな仕事ができると代表にいわれた。自分は代表を信じ100%力を出してみたい。

◆顔合わせ

1988年2月11日
18:00~20:00 新宿のホテル、中国料理レストラン。

テキスタイル担当:今契約しているディストリビュータには人材がいない。アマチュア集団だ。ベテランはみんな他所へいってしまった。

プロモーション担当:D社は金を出すがあっさりしている。M社はしつこい。A社は地下活動をしている。スポンサーのなり手がないマイナースポーツに金を出している。

代表:将来的に500億の会社にする。この4人が核になって法人化し大きな仕事をする。

◆ハッタリ

1988年2月19日
10:30 電話にて。

航空券と日程表を送るとのこと。ハッタリをきかすため、日焼けサロンで肌を焼いておくようにとのこと。

さっそく午後から関内の日焼けサロンに通い始めた。24日出発までの短期間で間に合うメニューを組んでもらった。健康的な暮らしで日焼けをしているというのは、冬場日照時間の少ないドイツではそれだけで、好印象を与えるのかもしれない。前の会社の同僚にあったら、毎日ゴルフで日焼けしたという。

初めてのことをこれから次々と体験していくのだろう。ヨーロッパに行くのも初めてだし、ドイツ人と話をするのも初めてだ。
To be continued.

◆あとがき

オフィスの風景。

就業規則で決められている時刻に出社しないで、勝手にオフピーク出勤をしている社員がいます。ニューヨークのテロでは、定時に出勤した人たちが犠牲になりました。きっと本能的に身を守っているのでしょう。この人たちの多くは、黙って席につきす。議論好きの種嶋さんも定刻よりおそく現われると、まわりの挨拶を無視して席につきます。

ていうかあ、本当に情けない経験をしました。自分の子供程度の年齢の社員にいわれたことなのですが。彼はK大を卒業した優秀な子ですが、挨拶が苦手で遅刻の常習者です。ある時、遅刻の言い訳に病院立ち寄りと伝言がありました。昼過ぎにこの子が出勤してきたので、「具合どう、大丈夫?」とききました。これは決まり文句で「大丈夫です」ぐらいの返事がくるものと思って気軽に声をかけたのが間違いでした。なんとこの子は「大丈夫だから会社に来たのです」といいました。最初はかちんときたのですが、よくよく考えれば、確かにこちらの質問に答えているわけです。ただ、一般の世間話ができないのには驚かされました。

オフィスは私語も少なくキーボードをたたく音だけが聞こえます。PCが内容を読み上げたら、きっと小学校の教室のように、私語でにぎやかなオフィスとなるでしょう。

独り言を言いながら仕事をする斉川さんもいます。この人がつぶやきを中断して、静かにキーボードをたたいているときは、オークションサイトでR物を入札したり、趣味のページを見たりしているときだと鍋島さんがいっていました。

次号は11月17日に発行します。

13号 01/11/17

■はじめに。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。このメルマガは、20代~30代の若い人たちへ向けた、団塊の世代からのメッセージです。また、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘のアピールでもあります。今のことばで言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

■目次

・初めてのヨーロッパ
・面接
・ドイツの感想
・五目焼きそば

◆初めてのヨーロッパ

1988年2月24日~3月3日ルフトハンザ、ビジネスクラスでミュンヘン行き。アンカレッジで深夜、うどんを食べた。日本を出発する前に、代表から小遣いをもらった。使った明細は次のとおり。YCAT-成田(リムジン)3100円、成田空港使用料2000円、バッグ2個 DM50、ヘンケルナイフ5本 DM69、財布 DM70、スカーフ $100、チョコレート 6箱 $71、テレホンカード DM74、FABER CASTELL DM84。ミュンヘンで降りたときの第一印象、若い女性が皆ブルック・シールズに見えた。

◆面接

1988年2月26日ミュンヘン、バイエリッシャーホフのラウンジ。前夜は時差と緊張で眠れなかったような気がする。想定された質問の答えを何回もベッドの中で繰り返していた。結局、ヤマははずれた。朝、指定された時間にラウンジへ行った。どこか個室で面接があると思っていた。ラウンジでコーヒーを飲みながら話をした。何人かと、何かしらの会話をした。「なぜスポーツ業界を選んだか」との質問。「スポーツ用品は国家が平和でなければなりたたない。自分は平和を愛する。だからスポーツ用品業界を選んだ。」後は、異業種の業界の話題に、事前に仕入れた情報でハッタリを目一杯。「日本一のブランドにするために、自分はドイツに来た」とか言った。夜になるとドイツの有名なスポーツ選手やらメディア、業界の人たちを集めてパーティが開かれた。テレビカメラが入っていた。会長がテレビカメラを前にして、自分を紹介してくれた。ドイツ語のあふれる会場で、英語でインタビューに応えた。

◆ドイツの感想

1988年3月10日14:00自宅にて。

(1)ドイツ人は背が高い。
(2)清潔。ホテルの部屋はよく掃除されていた。
(3)雪の町なかを、ベンツのタクシーがお尻をふりながら走っていた。
(4)炭酸入りのミネラルウォーターには馴染めなかった。
(5)よく握手をし、笑顔で話をし、紳士的付き合いの中で、過酷な生存競争をしている。
(6)ビールがうまい。

すべてが初めてのことで非常に感動した。なかでもミュンヘンの教会堂に入ったときは驚いた。天井の高さ、室内装飾。町の中に支配階級の存在を感じた。雪がちらついていた、市庁舎のりっぱな建物を横目に一緒に歩いていた体協の先生が「あなたもそう思っているだろうが、並んで歩いているのが女性だったらどんなにいいだろう」といっていた。ロマンチックというのはこのことだろう。若い頃にヨーロッパを見ることはすばらしいことだと思う。よく、テレビドラマで主人公のヒロインがパリに行くとか、ヨーロッパに行くとか口にする。あれは、あこがれではなく、実際日本にはない、歴史の重さ、人間の英知と時間の流れが混ざり合った重厚な雰囲気、空気を吸うためだと思う。商店は、土曜は13:00閉店、日曜は休業。これは伝統だという。これを破る店主はいない。他人が休んでいるときに姑息な手段で儲けようとはしない。これは長い間にわたり人々が支配者から自由な時間を勝ち取ってきたという民主主義の歴史がそうさせているそうだ。生まれながらにしてあったものではなく、弱い立場の人間が協力し助け合って自由を要求し、多くの犠牲のもとに今日の自由を得た。ここに日本人が理解できない歴史の重さがある。今回の旅は、ドイツで7年間、柔道の教師をやっていた体協の先生のおかげで勉強になった。昨年9月退職から動きは、自分の人生の転機としてかけがえのないものとなるだろう。あの会社にずっといたら、味わうことのできなかったことを経験してきた。時差ぼけと過度の緊張でよく眠れなかった。しかし、グローバルな視野をもって、仕事ができるということは、忘れていたものを再び蘇らせてくれそうだ。

◆五目焼きそば
1988年3月11日18:30 

品川の中国料理レストランで会食。4人の友人と焼きそばを食べた。このレストランで焼きそばを食べるのには思いいれがある。現場にいた頃、マンションの大家で、昼間は遊んでくれる人がいないといっていた常客が大好物だったメニューである。その人には主にプライベートでかわいがってもらった。赤坂のニュージャパンの近くにあった米軍の将校クラブ、横田基地、アメリカ大使館などに友人がいるようで、フリーパスで出入りしていて、一緒に何回も連れていってもらったから、特別の上客だった。この人がその後、癌で亡くなった。以来何かと理由をつけては、仲間でこの店に来ては故人を偲んでいた。何か特別なことをするときはこの店を選んだ。そもそも、この店は、現場から本社へ抜擢されたとき、引っ張ってくれた上司(この人もまもなく癌で逝ってしまった)と初めて食事をした縁起のよいところでもあった。そういうわけで、4人を招いて、思い出の焼きそばをメインにしたコース料理をチーフに頼んだ。去年の今頃、彼らに夢を語った。それが今、やっと現実になろうとしている。9月からの浪人生活(あまり危機感はなかったが)で得たこと。それは友人というのは、辛いときに慰めてくれる人間ではないということ。成功したときに喜びを精一杯祝い、楽しみを分かち合うことができる人たち、これが友人なのだ。私の喜びを一緒に味わってほしい。楽しいときに心から楽しめる時間を、それぞれのポケットから出してきて皆の前に並べよう。

To be continued.

◆あとがき

何万人もの社員に影響力を与えてきた異母兄弟のエピソードを紹介します。本人たちというより、それをとりまく社員とか社風のことです。弟の会社では、社員はエレベーターには特別な事情がない限り乗りません。いつ来ても社長が乗れるようにエレベーターを待機させておきます。社長が現場を歩く時、一般社員は物陰に隠れます。売り上げに比較して社員の数が多いのではないかと勘違いされないためです。現場に社長が現われると、社員はお客さまより社長の動きを優先します。すると、社長は、自分にしているのと同じようにお客さまにもサービスしているものと安心します。一方、兄の会社では、社長と社員は同じエレベーターに乗ります。ある時、エレベーターが満員で社長が乗ったときに定員オーバーのブザーが鳴りました。居合わせた社員は最後に乗ってきた人が雲の上の人であることを知っていましたが、だれも降りません。きわめて自然に、社長が降りました。(この話は実話です。)現在、弟の会社が生き残っています。

次号は11月24日に発行します。

14号 01/11/24(第一部 了)

■はじめに。

8月25日創刊より、本日まで辛抱強くお読みいただき、まことにありがとうございます。

第一部:1987年から1988年3月(転職にいたる背景)は、本号で了とさせていただきます。第2部:1988年4月から1992年3月(外資での博打のバとギャンブルのブル)を次号から展開していきます。第二部の内容については、登場する人物や企業から名誉毀損とか商権、プライバシーの侵害とかで訴えられないよう、「登場する人物、企業などはすべてフィクション」を前提にしています。

続いて第三部、第四部と現在に至りますが、思えば、90年代のバブル、青島さんが潰した世界都市博覧会のバブルそしてITバブルと、それぞれの節目で転職というテーマが出てきます。「父から子たちへ」というメモは第一部で完結したと思って書き残したのですが、どうやらライフワークになりそうな世の中になっています。もうしばらく、お付き合いをお願い申しあげます。

■目次

・始まりの終わり
・感謝
・ごめんな

◆始まりの終わり

1988年3月16日 14:00

大阪、船場。ドイツ本社のVPと会い、雇用契約書にサインした。4月1日より2年間。

1986年10月28日(火)19:00 赤坂のホテルで極秘にもたれた打ち合わせに、通訳として同席したことが始まりで、このプロジェクトに参加することになった。この半年、じっと待った。なかなか次の話が来ない中で、動かなかったことがよかったのかもしれないが、大学入試を終えて合否の通知を待つようなものだった。大きな違いは、結果が出るのに半年かかったことだ。家族、子供たちとはこの精神状態を共有しなかった。浪人を選んだ美学が、そうさせた。

既存のディストリビュータとの勝ち残りをかけた生臭い動き、オーナーの突然の死去によるファミリー内部のもめごと、ジュニアが幼かったため後見人の選定など、自分の知らないところで、160カ国のビジネスが繰り広げられていた。ひとりの日本人を雇うことはきわめて優先順位の低い議題であったことだろう。

極東のローカルな言葉で日本のビジネスを語るのはあまりにも狭い。自分たちは田舎の土産物を売るのではない。グローバルな製品を販売する、マルクで給料をもらうマーケッターだ。ドイツ、ヨーロッパの論理的な精神、西洋哲学の理念を早く身につけたい。そして東京、横浜、芦屋というイメージ戦略でいくことにしよう。

待つことが終わった。

◆感謝

1988年3月23日
17:00 原宿

15年近くお世話になった会社の常務が会ってくれるとのこと。彼にあって報告することがこの半年間の本当の目標だった。今でも見る悪夢に登場する人物だ。

常務:ドイツはどうだった。ドイツ語は大丈夫か。

「英語が共通語」

「ビールがおいしかった。日本のビールとは、ウイスキーとブランデーの差」
「ドイツ人は体が大きい」
「カルチャーショックを受けた」
「もっと早くヨーロッパへ行けばよかった」

常務:同じ業界なので協力しあい、力になることもできる。がんばってくれ。

常務直属の元上司から
「常務にいきさつを話し、会ってくれるかと聞いたところ会うといってくれた。」

「辞めた人間が報告に来てくれるのはうれしいことだ。また人間の輪がひろがっていくのだ。」

1988年3月25日

原宿の4Fで常務に会ったことでこのノートを締めくくることにした。1年にわたって転職について迷い、しかし常務のもとでは自分の将来はないことを、感じてきた。去年の9月16日、常務に退職をお願いし、今回は再就職の挨拶で会った。私は自分が現状に不満と限界を感じたのは彼の存在によるものと思っている。部下にはなりたくない上司だ。彼の指示は間違っていない。経営者としては優秀な人だ。

自分が彼の立場だったら、彼のようにやりたいと思う。ビジネスの先輩として尊敬の念を持ってまた会える日が来るのを楽しみにして、4月1日からの仕事にはいっていきたい。

どうも昔はよかったと思ってしまう。振返って少し考えればとんでもない人たちで、ずいぶん迷惑し、円満退社に苦労した。辛かったことや恨み節は、すぐには思い出せないので助かっている。まずは、常務をはじめとする皆さんに、今は本当に感謝したい。

◆ごめんな

以上のメモは二人の息子たちがいずれ成人し就職し、ある時参考にしてくれればいいと思って書き残したノートを再度ワープロでまとめたものである。

振返れば、子供たちに書き残しておきながら彼らの将来についてはほとんどコメントがない。家族との話し合いによる意思決定はなかった。父にも相談しなかった。

そして家族が自分の決断によって巻き込まれる事態について何ら配慮していない。彼らにとっては中学、高校という人生観を形成し、友人とめぐりあう多感な時期であった。その時期に自分のことが精一杯で父として何もしてやれなかった。

思い出すたびに、目が潤む。ごめんな。

第二部へ続く

◆あとがき

やっと第一部が了となりました。1回だけ土曜の0:00発行ができませんでしたが何とか続きました。第一部は詳細なメモがあり、ずいぶん暗かったなと思いました。泣いたり笑ったりがなく、ひたすら焦点の定まらない目標をねらって、じっと待っていたようです。今とあまり変わっていないところもたくさんあるような気画像します。

第二部の内容は、外資での5年間の総括を、残したメモをネタにしてフィクションとして紹介します。時差ぼけ、ストレス、オーバーワークなどで肩に力がはいり、目が血走ったエコノミックアニマルの一員として、当時の転職の現場を再現することができると思います。

この内容はメールマガジンに連載した内容を転載したものです。
発行責任者:吉野輝一郎

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