第三部 春のうらら=夢のあと

65号 2002年11月16日

はじめに:「春のうらら=夢のあと」

1980年代、当時全盛であったミニコミ誌には縁がなかったのですが、20年後の現在、インターネットのおかげで、個人でもメディアを持つことができる時代になりました。デザイナー・イラストレーター・コピーライターのプロがはきだす紫煙の中で創りあげられてきたクリエイティブな世界に、素人が遠慮がちに踏み込むことにいたしました。

読者の皆様のおかげをもちまして、これまでの人生の中で培ってきたことなどを、本編をとおして発信続けることができました。まずは、お礼申しあげます。

それに触れると、触れたその人のデシジョンが将来変わるかも知れない。これが価値ある情報です。このメルマガは、20代~30代の若い人たちに向けた、団塊の世代からのメッセージです。実は、同じ思いを胸に秘めた同世代の仲間への共闘のアピールをねらっています。今の言葉で言えば、情報共有/ナレッジマネージメントでしょうか。

本編は、これまで、第一部:1987年から1988年(転職にいたる背景)、そして第二部:1988年から1992年(外資でのばくちのバとギャンブルのブル)に続き、今回より第三部:「春のうらら=夢のあと」を展開してまいります。おつきあいのほど、よろしくお願い申しあげます。なお、関係各位のプライバシーに配慮して、匿名でご紹介させていただきます。

◆S-1:バブルの余震(aftershocks)

外資での個のレベルでのバブルがはじけるのと同時に、父親そして家族に対して、一方的に解散を宣言したため、1993年は文字通り独りで迎えることになりました。「父から子へXX通の手紙」というのが話題になっていたので、高校生の息子2人に、彼らが社会に出たらいつか渡そうと、第一部:1987年から1988年(転職にいたる背景)、第二部:1988年から1992年(外資でのばくちのバとギャンブルのブル)をまとめ始めました。

ところが、昨年までの「代表」(したたかな、悪い商人)との連携を残していたので、心機一転とはいきません。12月決算の監査が終わる3月までは、道義上逃げ出すわけにはいかない、折角ここまで経験したのですから、行けるところまで、死なない程度に地獄を見たいと思いました。逃げ出すタイミングを失ったのかも知れません。

今度は、外資という一定の公序良俗のビジネスルールがあるチームプレーではなく、「代表」とのデュアルプレー(個人戦)になってしまいました。修羅場を踏んだ場数からいって、初めから勝ち目はございません。どんどん攻め込まれ、ブロックしてもすぐ超法規的な手段で破られ、「まさかこんなことがあるはずがない」が日常的となりました。

何はともあれ、10年日記を買い、敗戦日誌を書き残すことにいたしました。

66号 2002年11月23日

◆S-2:デュアルプレー

1993年1月、個のレベルでバブル崩壊後の清算を始めました。ともかく、東京に拠点を戻しました。次は必ずあると確信し、当座の不安はありませんでした。

3月までは、オーディットの準備に責任があると考えていました。昨年まで世話になった代表とは、パートナー関係を断りました。これ以上騙されたくないというより、このまま一緒にいてもキャリアアップにならないと判断しました。

この時点で、個人戦となり、次のビジネスを始めようとすると、代表がノイズをいれてきました。結局6月まで、代表の妨害を被りながら、提案活動を続けることになりました。

◆S-3:提案活動をはじめましょう

1987年春、15年の鉄道グループでの勤務に見切りをつけ、1988年ドイツ企業に転職しました。5年間のバブリーなグローバル企業(業界では世界第1位の知名度)での業務内容は、ラスベガスのホテルの支配人になった西山氏が指摘したとおり、何年いても原宿では経験できなかったことでしょう。

創業者一族の弱みにつけこんで、私欲を肥やし、何十年も家族ぐるみで忠誠を尽くしてきた何千人もの社員を解雇してしまった経営者グループ。善意を玩具にして人を騙し甘い汁を吸っている商売人。彼らは、私のベランダの花壇で使う腐葉土のようなもの。悪の天才たちと共演した数々のドラマは、肥やしとなって、いつかきれいな花を咲かせてくれることでしょう。

ニュールンベルグを基点とした外資企業での体験を総括し、このあたりで、今まで何となくみてきた「東京港のレストランボート」の事業について、ケーススタディをしたいと思っています。目的は、原宿とアドルフでの経験から、自分なりに身に着けてきた実績を次の場面でどのように活かすことができるかを検証することです。

◆S-4:キーワード

一歩踏み出す前に、今までの経験で学んだビジネスのキーワードを整理すると、つぎの6項目になります。

1)友情
困ったときに助け合うことを期待しない。友人とは、楽しいときを共有したい。

2)思いやり
相手の立場に立って考えたい。笑顔を忘れない。

3)誠実
詐欺の天才ではないのだから、人を騙そうとしてはいけない。

4)精悍さ
弱みを見せず、勝つことに集中して積極的に取り組みたい。

5)潔く
いかに負けるかを考える。だらしなく後ろを振り返ってはいけない。

6)チームワーク
信頼できる仲間とチームを組まなければ、プロジェクトは成功しない。

67号 2002年11月30日

1993年2月

アドルフジャパンで付き合いのあった複数の業界大手に事業計画の提案を開始。まず、出版関係の制作会社に提案し、その結果、デスクを提供されました。

◆S-5:「マルチメディア事業への提案」

1)大人のマーケティングが通用しない電脳世代へ

市場規模:96年には世界市場は出荷額で90億ドル(1.1兆円)日本データクエスト(東京)は世界のマルチメディア市場に関するレポートをまとめた。レポートでは世界のマルチメディアコンピューティング市場は96年までに出荷額で90億ドルに達すると予測。92年から96年までは年平均31.6%で成長するとしている。(日経93.2.5)

2)市場へのアプローチ

書籍などの紙メディアは電子化する。従来のニフティサーブをはじめとするコンピュータ通信は一部のオタク層に限られて、未だ広範な市民権は得られていない。しかしファミコン世代が消費者として登場する近い将来にはマルチメディアによる情報産業は平面のメディアに替わる可能性が十分にある。

マルチメディアの将来の可能性に向けて、貴社グループの事業展開の積極的な姿勢を示すPR効果を狙い、戦略的プロジェクトとしてパソコン通信のネットワークを構築する。既存のネットワークは利用者に窓をあけているだけで主催者はいわば駐車場の管理人にすぎない。これを積極的に活用し「電脳ハナコ」のようなメディアにする。

3)ターゲット

コンピュータネットワーク利用者(約40万人)潜在ターゲットとしてファミコン、ワープロ、パソコンユーザ。

4)事業内容

・各雑誌の内容を動画や音声を付加してコンピュータネットワークで公開する。
・バックナンバーをファイルしコンテンツを提供。
・電子メールを利用し市場調査、テストセールをはじめとする無店舗直販を展開。
・読者が少ない専門書や、地域、部数、販売期間が限定される雑誌をオンラインを提供することにより低コスト、低価格で販売
・電子会議を主催し利用者の消費動向、トレンドを収集、情報発信をする。
5)事業規模
日経MIX程度(会員数:初年度1万人)ネットワーク管理者を置き、情報入力は外注。
6)準備期間とイニシャルコスト
・1年、1億円(ただし入会金で半額補填)
・日経MIXは7~8年かけて現在の規模(14,500人)にしている。当時の市場規模を考慮すると、開設後3年で営業ベースになると見込まれる。
・ランニングコストは未定。

7)事業組織

企業PRの戦略的プロジェクトとしてとらえ、営業ベースになるまで(3年間)は独立した事業組織にしない。初年度の商圏は東京を中心とした首都圏とする。

★★★★
ところが、詳細なビジネスプランを某社に流した人物がいたため、広告代理店H社がそっくりの準備室を立ち上げたことを、後日新聞記事で知りました。

68号 2002年12月7日

1993年2月

アドルフジャパンで付き合いのあった複数の業界大手に事業計画の提案を開始。まず、出版関係の制作会社に提案し、その結果、デスクを提供されました。ここを拠点にして3つの業界に下記のような提案をしました。

◆S-6:「International Licensing & Merchandising」

1)趣旨

最近のブランド商品のマーケットは多様な海外ブランド商品が売場にあふれることにより、その商標の持つ付加価値、差別化が希薄になり、ひとつのブランドが持つ可能性はそれほど期待できなくなってきている。加えて世界的な経済不況による個人消費の低迷は雇用不安や経済の先行き不透明感を背景にして、消費者の購買態度が価格とブランド両面で大きく変化してきている。少しでも安いものを求めブランドよりも本質的な機能に価値を認める動きが目立ってきている。消費者の本物志向は変わっていないが健康や安全、自然環境という面の関心も強い。

ブランド商品は少量多品種の市場動向のなかで魅力ある商品、消費者が必要と感じる商品を開発し、それをいかに妥当な価格で提供できるかがポイントになる。もちろん、各企業が育て上げ蓄積してきた営業ノウハウと広範囲の販売チャンネルの重要性はいうまでもないことである。

一方、流通の面ではメーカー、販売元が長年にわたる取引上の付き合いを背景に問屋に魅力ある掛率を提示して、商品を押し込むような一部の販売政策は流通在庫を膨らませ、希望上代価格と実売価格の二重価格を生み、結果としてブランドそのものの価値と信頼性を損なう危険をはらんでいる。

このような状況において広く消費者のニーズを捉え、そのフィードバックによる生産販売、言い換えれば消費者が本当に必要とするモノを妥当な価格で必要な量だけ生産し、販売することが時代の要請に応えることであるといえる。

MHグループは長年雑誌メディアによりヤングアダルト層へのトレンド情報発信の一翼を担い、今日の若者文化に重要な役割を果たしてきた。このグループの情報発信の実績とノウハウを活用し、消費者の立場からの情報提供/アドバイスと提案および異業種間のコーディネーションという新規事業を通じて、時代の要請と企業のニーズに対応することが必要と考える。さらに、各マーケットにおいて、ブランド/商品のライセンス、ディストリビューション契約という分野でのコーディネーションもまた時代のニーズといえよう。

2)事業の概要

☆契約企業の保有ブランド価値の育成、強化のためのコンサルティング(ターゲットの設定。ブランドポジショニングの確認。イメージ、コンセプト、認知度調査。販促、広報、宣伝活動の提案)

☆新規ブランド/商品の提案とマーケティング(各ブランド保有企業との調整による異業種への展開。新規ブランド関連の商品化提案。マーケット調査、テストセール、新規流通チャンネルの提案)

☆グローバルマーケティング(海外への国内ブランド商品の販売、ライセンス契約仲介。日本上陸希望の海外企業と国内企業とのライセンス取引の仲介。国内、海外のスポーツ、レジャーマーケットの情報収集、活用)

3)事業計画、契約内容:省略

69号 2002年12月14日

1993年3月

六本木のオフィスにデスクを提供していただき、ここを拠点にして「InternationalLicensing & Merchandising」をテーマに提案活動を始めました。ところが、思わぬところで、つまずきました。不誠実な言動に我慢ができず、接触をやめた元「代表」の妨害にあいました。彼の攻撃は執拗で効果がありました。

◆S-7:「ストーカー被害」

東京六本木のオフィスから、まずクレームがはいりました。このオフィスは新規事業をたちあげるまで、デスクと電話の取次ぎサービスの提供を約束してくれたのですが、元「代表」の嫌がらせの対象となりました。まず女性社員が被害を受けました。乱暴な電話がひっきりなしにかかりました。当時は「ストーカー」被害に対する認識が低く、法的な規制も整備されていなかったので、すぐ結果がでました。このオフィスでの電話取次ぎができなくなりました。

つぎに、提案先の企業からクレームが入りました。こちらも電話を受ける女性社員をターゲットにした乱暴な電話が頻繁にかかりました。

さらには、これからコンタクトをとろうとする企業にはすべて怪文書が届けられました。この時点で新規事業に対する提案活動は終わりました。悪名高い人物が流す風評ですから、効果があります。素人が喧嘩のプロと戦うようなもので、あっけない幕切れでした。新規ビジネスを立ち上げるために必要な個人の信頼性が失われ、プロジェクトが頓挫しました。

70号 2002年12月21日

1993年5月

東京六本木のオフィスに提供されたデスクが、執拗な元代表のいやがらせのために使用できなくなり三軒茶屋に借りた2DKでSOHOの準備をはじめました。まず、残してあったメモを整理し外資での5年間を総括することにしました。当時話題になっていた「父からの息子たちへの手紙」をテーマにして、二人の息子が将来就職し転職を考える場面で参考になればと思い、1週間かけてまとめました。また、告発の材料にするつもりで持ち出した改ざんされた領収書(元代表が数字を1桁書き加えたもの)や、密約が招いた不利な契約条件の詳細メモなどをすべてシュレッダーで処分しました。この男の影の部分を押さえることによって自分の身を守れると考えたのが、間違いでした。不正の臭いのする書類はすべて処分し、彼のフィールドに近寄ることをやめました。2月から始めた新規事業の提案活動をやめ、外出を控えました。

アドバイスや紹介者もないまま、まず外資系の斡旋会社に登録し、同時に、ひとつ残っていた「元代表」には無縁の企業に、提案書を出しました。

◆S-8:「ビジネス1993」

1.前提条件

1)マーケット:首都圏の法人、個人グループおよび地方からの団体旅行。

2)ターゲット

企業:イベント、福利厚生行事。個人、グループ:家族でも楽しめる手軽で健全なレジャー。

3)強み

水路の利権をもち、異業種の乱入による営業不安が少ない。東京ウォーターフロント構想の枠内にあり企業のポジションが明確で将来性が期待できる。ベーシックな商品から高付加価値の商品まで需要とトレンドに対応して多様な商品群を提供できる。全国各地で大手企業が同種の事業に参入してきており、競争によるマーケットの拡大が期待できる。

4)弱み

季節性がある。天候に左右される。大手企業の資本力、企画力との競争に耐える体力はない。営業活動の強化、事業規模の拡大に必要な人材を採用できない。

2.前提条件からの仮説

1)営業チームの強化

大手企業の参入による競争激化に対処し、消費者動向に即した営業活動により経営の安定をはかるため、既存の営業マンのレベルアップをはかる。シーズンオフ、荒天に日を利用して、マーケットリサーチ。シーズンオフには競合他社は何をしているかを調査する。シーズンインに向けた受け入れ準備。提携ホテルでのサービストレーニング(客室、宴会サービス)。

2)成功報酬

営業計画、予算管理の重要性を社員に徹底させるため、各個人が担当部門において中期計画(3年)を作成し、期末に目標を達成した場合は魅力ある額のインセンティブを出す。これは長期的に期待されるモチベーションの維持に効果がある。

3)新商品の提案と新規販売チャネル開拓

営業マンは既存商品の販売に全力を注ぐ。新規商品やトレンドに沿った商品、販促プロモーション活動、消費動向による販売経路の新規開拓の提案は、外部スタッフに依頼する。外部スタッフは該当する商品の売上から、一定の比率を成功報酬として受け取る。ただし、商品化にいたらなかったもの、または売上実績が伴わない企画に対しては、企画料は基本的に支払わない。

4)バトームーシュとの提携

パリのエスプリと江戸情緒をミックスして他社との差別化をはかる。パリにはたくさんの日本人観光客が訪れ、多額の消費をしている。バトームーシュ側としても、日本の同業者と提携はメリットがあると考える。送客は旅行代理店に任せる。提携の主な内容は情報交換と友好的なPR活動である。東京側からはパリに現地採用の連絡員を定期的に派遣して意思疎通をはかる。

5)キャラクター商品

「バトームーシュ/パリ/東京」のキャラクター商品化を通じて企業イメージの浸透と強化をはかる。版権使用を媒介にして異業種とのタイアップキャンペーンおよびロイヤリティ利益獲得をねらう。

3.コメント

会社の経営内容と今後の事業計画の詳細を参考にしていないが、10年以上にわたる経営者との親交のなかで得た情報を考慮すると、常識にとらわれない新しい経営手法による成功という起業に挑戦する余地が十分にあると考える。

71号 2002年12月28日

1993年6月

まさかの妨害に遇い、当てにしていたこの5年間の人脈はことごとく元代表につぶされました。そこで、ほとぼりが冷めるまでじっとしていることにしました。まず、ボート免許をとりました。バブルのときは、ボートを購入する余裕はありましたが、自由な時間と心のゆとりがありませんでした。今回はサンデー毎日ということで、できそうでできなかったことに挑戦することにしました。それから、履歴書や業務経歴書を書くので、ペン習字の通信教育も試しました。

ボート免許を取って思い出したのは、船酔いすることでした。ペン習字は、文字を書いているうちに、自然と元にもどってしまうことがわかりました。

結局選択肢は2つになりました。外資の日本事務所代表の話がエージェントからありました。もうひとつは、長年プライベートでお付き合いのあった会社でした。

72号 2003年1月4日発行

あけましておめどとうございます。本年も引き続きよろしくお願い申しあげます。

1993年6月

2日 入梅宣言

まさか会社を整理し、ゼロからスタートする機会があるとは思っていませんでした。

朝、トレーニングをし、花壇に入り込んでくる野良猫を追っ払い、洗濯をし、風呂にはいる。これが午前中の主要なプログラム。電話とファクスには何も情報が入ってきません。新聞とテレビ、ダイレクトメールが外界との接点になっています。

4日

健康状態は良好、精神状態はやや不安。しかしこの5年間で最も好ましい状況です。仕事がないのが悩みですが。

7日

Windというアメリカズカップ(ヨット)の映画を見ました。自らの選んだ道を進む代償は非常に大きいものがあるといっていました。

サッカー選手のインタビューをテレビで見ていて、ドイツ語なまりの英語がなつかしく聞こえてきました。

パリでお世話になったサッカーボールのプロダクトマネージャーが手紙の中で、「人は自信をもって生きる道を進んでいけば必ず人生悔いのないものになる」といっています。

11日

神戸の家裁で2回目の調停。次回7月9日で決着するとのことでした。バブル後の個人レベルの清算です。これでほとんどゼロからのスタートになります。今後は養育費が負債となります。

15日

朝、長年プライベートでお付き合いのあった会社から電話があり、明日から採用すると言われました。平社員で収入は半減ですが、毎月の収入を確保しないと養育費も払えなくなりますので、ありがたくお受けしました。

夜(22:30)、ヘッドハンターから電話があり、米国資本のライセンス管理の会社で、日本の責任者のポストがあるとの連絡でした。アジアパシフィックの責任者(米国人)の下で、これから日本法人を立ち上げる責任者ということでした。

「International Licensing and Merchandising」という提案をこの6ヶ月してきたのでその結果が出たわけです。IFというか、また外資で挑戦できるという甘い誘いを断り、今回は「一宿一飯の義理」のような気分で日本の会社を選びました。

16日

出社。5年ぶりの日本企業。この3月からの動揺、あせり、まよい、そして挫折感を忘れてはいけないと思いながら、一方では、忘れようとして安易な道を選んだかもしれません。

73号 2003年1月11日発行

1993年6月

19日

職場の環境が変わったので、何となく精神不安定なような気がする。ゼロからやり直すといえばカッコウがいいが、つらいものだ。職があるということはないよりだが、大した仕事がない。不平不満はきりがない。狭いオフィスのなかで営業マン10人近くが、朝、お茶を飲みながら喫煙している。今は居候の身だから我慢するしかないか。

土曜の朝、電車がすいているのに驚いた。業務がオーバーフローして休日出勤する土曜と、休日ではない土曜とは一日の長さ違う。

20日

海技免状をもらった。やっと新しい職場で1週間が過ぎた。

毎朝3~4時に目が覚める。いろいろな夢を見る。原宿の宣伝部の風景、ドイツや台湾のオフィスが夢の中にでてくる。

1993年7月

4日

東京に拠点を移したが、10年以上借りていた横浜の駐車場は解約しなかった。生まれ育った所であり、横浜は自分の原点としてこだわっていた。前職で支給されていた乗用車は、リース料を全額前払いしていたので、残りが1年ある。これを横浜においていた。前夜、車を横浜から東京に移し、1日ドライブを楽しんだ。月に1回、車を動かしている。

9日

神戸に行き、家裁で調停成立。昨年末、芦屋のマンションで別れた息子二人に会うことなく離婚となった。今回、裁判官、調停委員から協議離婚のケースをいろいろと聞かせてもらった。女性の側から申し立てるケースはすさまじいものがあるようだ。夫が病弱で収入がない、暴力をふるう、酒乱、ギャンブルで浪費、サラ金に巨額の借金負債、倒産など。自分のケースは「夫のわがまま」というところか。会社でのパワーゲームの中で、家族が強敵の口車に乗せられたことを第一の理由とした。今思えば罪なことをしたと少し後悔している。当時はバブル全盛で金と権力の甘い蜜が散乱していた。日本人はNO.1とかエコノミックアニマルと呼ばれて、肩で風を切っているような気がしていた。

できることなら、朝までゆっくりと眠り、思い切り叫んだり泣いたりしたい。

74号 2003年1月18日発行

1993年7月

15日

家裁の調停書が届いた。個人レベルでのバブル清算の見通しがついた。

仕事を終え23:30に帰宅したが、うつむいて歩いているような気がする。これではいけない。毎日、何となくもの足りない日が続いている。しかしながら、この感じは外資にいたときにはなかったものだ。過去は振り返ると良く見えるもの。その最中は、実は本当に辛いものだったに違いない。ただ、今忘れているだけだ。

20日

宅配便で神戸から祖母のキセルと母の時計、それからだれかのメガネが届いた。形見であった。忘れていた。

今の仕事にありついて1ヶ月がたった。休みの少ないのには困ったものだが、外資では週休2日は建前で、週末はいつも移動日であった。金曜の夕方とか土曜の昼間は成田、ドゴール、フランクフルト、ヒースローにいることが多かった。週末を自由時間として使えるようになるには3年かかった。

27日:梅雨明け

息子あてに養育費6ヶ月分を先払いして送金した。ふと申し訳ないと思ったりしたが、今はこちらも辛いところだ。養育費を払うと給料だけで暮らしていけないというのは、なんともたまらないことである。この苦しさ、いつの時代にもいつもの事としてかわりなくあったものだ。

1993年8月

1日

天気が良かった。表に布団を干し、靴を磨き、サマージャケットを買い、ビールを4本飲んだ。状況が変われば変わったで、その場その場で不満がよく出てくるものだ。いつまでも満足感を味わいことはないのだろうか。

緊張感がなくなったため、物足りなさが毎日積み上げられていく。同時に何もしなくても1日が過ぎていく、楽な生き方がすぐそばに来ている。

5日

初夏に蒔いた草花が咲き出した。ひまわりが大きく咲いていた。朝顔も次々と咲き出した。

11日

口頭辞令により売店部門の責任者となった。社員2人とアルバイト20人で日銭をかせぐ。まずは、社員に対して、アルバイトをXXさんと呼び、アルバイトには声をだして挨拶するよう躾を始めた。営業スペースの美化とオフィスの整理整頓を毎日するようにした。

実家がタバコ屋をやっており、子供の頃から店番をしていたので、100円200円の商品の売買には抵抗はなかった。

75号 2003年1月25日発行

1993年8月

19日

パリ、ヴァンドーム広場の店で買った腕時計が遅れた。バッテリーがなくなっていた。愛用していた3色ボールペンを歩道で落とし、それを自分で踏みつけてしまった。少しずつ身の回りからバブルの遺物が消えていくような気がする。24日友人との接触がしばらくない。前を見て過去を振り返らずに暮らしていくつもりになっている。つい数ヶ月前まで感じていた外資でのいびつな生活はうそのように消えて、あの頃の緊張感は、今はない。最後にいくつもりでプールしていたオープンのCクラスヨーロッパ往復航空券を換金した。白地のワイシャツを10枚買った。

1994年9月

毎日レポートやネゴに翻弄され、あわただしく1週間が過ぎていくという日々はなくなった。ついでに緊張感も薄れた。ビジネスマンを引退してしまったか。そうは思いたくない。今はバブルを清算し、新たな生活を始めようとしているだけだ。その過程で将来と目前の生活が歪められてしまった複数の家族がいる。この時期、同じ経験をしている同時代の人たちがたくさんいるはずだ。

船は出てしまった。もう一度引き返して船を桟橋につけることは、不可能ではないが、時間の浪費だ。香港から台北に向かう飛行機が、離陸をあきらめ、滑走路を引き返したことがあった。あの時わかったのだが、離陸をやり直すということは、列の最後に並ぶことだった。次の番まで時間がかかった。その間にオーバーヒートしてまた列の最後に並んだ。台北での会議に間に合わなくなり、行き先を成田に変更し、乗り換えた。ところがスーツケースは台湾に行ってしまった。

76号 2月1日発行

1993年9月4日

バーバーのマスター大学卒業後最初の職場には、福利厚生の施設として従業員用のバーバーがあった。職場が変わったり、異動、転籍、転職を経験したりしたが、どこの会社に移っても、このバーバーには通い続けた。最初は社員割引で安かったので通った。その後、チェーン店が価格破壊をして近所には安くて早いバーバーがいろいろできた。なぜか、バーバーは変えなかった。1972年から通い続けている。季節の変わり目にはマスターの奥様に花をおくり、お中元とお歳暮は欠かさなかった。海外に出張すると、土産を持っていった。今でも、このバーバーには1990年5月1日にパリのチュイルリー公園近くの路傍で買った200フランの油絵が飾られている。

20年も同じバーバーに通っている。そのマスターに言われた。「お宅は一番いい時代を生きてきた。戦争もなく、高度経済成長の恩恵を受けてきた。今の若い人たちはバブルも知らない。またバブル時代にいながらバブルを味わっていない同年代の人たちもいる。」

9月5日(日)

売店で3つの企画を実行した。モルツとは別に、「江戸前ビール」を仕入れ、「サンドイッチ」と「オリジナル絵葉書」をメニューに加えて販売を開始した。観光地での商売は、天候と曜日が集客と売上の基本となる。金曜の夜にテレビで「週末は天気が悪い」と放映されれば、たとえ当日の朝に太陽が顔をだしていても、観光客の出足は鈍る。前日の天気予報に影響されて、休日の外出を控えてしまうファミリーがいる。日銭の商売である。売上がよければ、天気に恵まれたからだと報告し、荒天で売上が少ないときは努力と工夫が足りないといわれる。

77号 2月8日発行

1993年9月7日(日)

売店のアルバイトが、お客さまとトラブルをおこした。

浅草を拠点とした観光地の商売は、休日は地方からの団体客も多い。

自給千円で雇っている若いアルバイトが、お客さまのクレームに反論した。確かにビールを片手に気持ちよく観光をしているお客さまにとって、売店の若い売り子の反論は、内容はともかくとして、おもしろくない、せっかくの行楽日和に楽しい気分が壊される。「自分のほうが先だ、早くしてくれ」というのは、売店でお客さまが立て込んだときは、日常茶飯事のこと。そこを、笑顔でしのぐのが、若いアルバイトに要求される。

フリーターをいくらかわいがっても、ペットにはならない。だから褒美をやってもなつかない。そもそも、責任とか勤勉とかが馴染まない人たちが選んだ道である。そういう人たちとは、それなりの付き合いをしなければいけない。基本的な接客マナーを学習しない人たちには、問題がおきたら、レッドカードで退場していただく。

クレームをつけたお客さまが、再度電話をしてきた。ご迷惑をかけた係りのものは即日解雇したと伝えた。このお客さまのセカンドコールはないかもしれない。しかし、年間数百万人が店の前を通り過ぎる。問題がある売り子はリリースして、笑顔が得意な売り子と入れ替えればいい。

78号 2月15日発行

1993年9月21日(火)

正社員が10人で、アルバイトが30人近くいる。アルバイトは夏が終わると辞めていく。秋の行楽シーズンに備えて、新規に10人補充する必要がある。20人面接して5人採用の返事をしたが、来るかどうかは当日にならないとわからない。仲間同士で連れ立って面接に来た場合は、採用しない。一緒に辞めるリスクが高いから。

9月28日(火)

売店部門を任されてから、業務の効率化に手をつけはじめたため売上があがってきた。この部門は大学生のアルバイトが、高卒社員の甘い管理のおかげで、勝手なことをする余地がかなりあるようだ。観光地ということで、100円で仕入れた缶ビールを缶のまま350円で販売する世界である。コーヒーにいたっては、原価が販売価格の3%程度であり、まさに水商売である。アルバイトの時給は1000円で交通費を別途支給する。1日の売上が一人5万円を越えれば、5万円ごとに500円の大入りを出す。社員にはボーナスなどが年4回、さらに1日あたり設定された売上を超えれば、全員にその都度1000円の大入袋が支給される。

このような水商売で、粗い仕事は人間がだめになると思っていたが、今またその世界に足を突っ込んでしまったような気がする。若い頃、ホテルでヘルプと呼ばれた派遣サービス員から接客技術を学び、またサービス業の裏面も一緒に経験してきたので、大学生のアルバイトの行動パターンが見えてしまう。ところが、古参の高学歴アルバイトたちは、どうせ社長の知り合いで会社に入ってきたのだから現場は知らないだろうと思っているらしい。

アルバイトが売上をごまかしたり、商品に手をつけたりするのを、少し牽制するだけで一人当たりの売上計上が5千円増える。所詮水商売なのだから、逃げ道は残しておかないと、成り立たないが、最初は牽制するだけで利益に貢献する。次は、仕入れと在庫管理、顧客満足度などだが、まず現場で垂れ流している必要経費に、社員が原価意識を感じるだけで効果が期待できる。

79号 2月22日発行

1993年9月30日(木)

古参のアルバイトを1名、勤怠が悪いという理由で解雇した。新しい人間を入れて、前からいる人間をやめさせるのは納得がいかないという。空手をやっているということで、拳で机をたたいて出ていった。

10月1日(金)

解雇したアルバイトの父親(乃木坂にある国の施設で通信部にいる)が不当解雇という書状を出してきた。こちらは、顧問弁護士を代理人にたて、対応することになった。ここでアルバイトになめられるわけにはいかない。結局、弁護士の勧めで、1ヶ月分のバイト料相当額を支払い、今後、当社施設に近づかないことを条件に穏便に処理することになった。

売店では、売り子も商品である。商品の入れ替えにより、売り場を活性化し、売上促進をはかる。米国のレストランでは、笑顔が出ないウェイトレスはマネージャーに解雇される。接客に向かないアルバイトを使っている社員に教えてあげた。

10月10日(日)

前の会社で使っていた車はリース料を全額前納してある。リース契約があと1年ある車を、友人に使ってもらうことにした。15年近く借りていた駐車場を解約した。友人は1年間のリース料を払うといったが、もらわなかった。これもバブルの清算のひとつであった。

10月23日(土)

電車がすいている。土曜に出勤するサラリーマンは少ないから。天気は良いが寒い。

オータムコタム。

80号 3月1日発行

1993年11月4日(木)

古典落語を得意とする一門で、真打になっている友人と渋谷で食事をした。笑点でレギュラー出演している若手と同期だそうだ。真打になったら、暮らしがたたなくなるとのこと。前座、二つ目のうちは、安いギャラでも数をこなせば何とか収入は確保できるが、真打になるとそれなりの仕事しかまわってこない。安い仕事は、弟子にまわさなければいけない。

そこで、得意の話術を活用して、AMWAYをはじめたという。米国本土やハワイ、東南アジアにインセンティブで旅行していると元気に話してくれた。

外資での5年間で先進資本主義国(死語かもしれない)を毎月のようにまわっていたので、海外旅行は、自分にとってはインセンティブではないが、うれしそうに、自信たっぷりにサクセスストーリーを聞かせてくれた。まわりで、活躍している人がいることはいいことだ。あやかりたいものだ。いいや、話をきいているだけで、元気になる。

しかしながら、このビジネスモデルは自分がやってきたこととちがう。苦しみながら、回り道をしたりしながら、少しずつ蓄えてきた個人的な知的資産があまり役に立たない世界に思える。既得権で収入を得る経験がないので、違和感がある。

今は、100円から500円ぐらいの商品を次から次へと売っている。週末に売り切れるだけの量を仕入れて日銭を稼いでいる。

11月14日(日)

ホテルオークラで、米国のAMWAY幹部に会うよう誘われた。彼らはビジネスマンではないように自分には映ったので、断った。

11月15日(月)

女子大生のアルバイトに、古参の社員がセクハラをしたと報告があった。会社はハレンチ罪でこの年寄りを解雇するかと思った。しかし、この社員は保安庁出身で、航路の許認可にからんで必要な人間らしい。話を聞くと、夏場から何かにつけて体を触られたという。肌の露出度が多い子であったので古参社員は勘違いした。アルバイトは涙を流し、辞めていった。

アルバイトの立場に立てば、古参社員を敵にまわす。この会社でも、また一人、敵が増えた。

No.81 03年3月8日発行

1993年11月24日(水)

ベテランのアルバイトが2名、勤務当日、辞めるといってシフトに穴を開けた。シーズンオフに近いので、2人がいなければ、当日の売上に打撃を与えると思っただろう。対抗措置として営業担当の社員を売り子にして、日銭を確保。明日からのシフトを調整した。

現場の仕事をがんばってやっていた若い頃、自分がいなければ現場は困ると思った。人間関係がうまくまわっているときは、そのことが励みになるが、上司や会社の評価に不満を持つと、自分が辞めれば会社は困ると勘違いしたことを思い出した。

12月7日(火)

去年、ロンドンの会議で聞いた話。「CEOは会社にとって必要な人間ではなく、自分にとって有用な人間しか残さない。」

今、20~30人のアルバイトを使っている。彼らの中には批判的な人間が何人かいる。しかし今まで、いろいろな職場で圧倒的多数の人たちに支持されたことはなかった。いつも自分の外側には納得しない人たちがいた。独仏英米、それに大阪でもそうだった。ごく少数の人たちとしか、酒を飲まなかった。ついてくる人間を少しずつ増やす。少なくとも自分が採用したアルバイトには定期的にメインテナンスをして信頼性を高めたいものだ。

12月8日(水)

2つ前の会社の上司に、誕生日を祝い、花を贈った。厳しい上司であった。今は、管理職の手本として参考にしたい人物になっている。

No.82 03年3月15日発行

1993年12月12日(日)

今の仕事は天候が売上増減の重要なファクターになっている。前の晩のTVの天気予報が、翌日の観光地への出足を決めてしまう。当日の朝、いくら晴れていても、前夜の天気予報で崩れるといっていたのがブレーキとなってしまう。夏は晴天が続いても猛暑だと外出しない、冬は寒いと外には出ない。昔はよかったのか、いや、そのようなことはない。

12月16日(木)
田中角栄氏が亡くなる。75歳。

昨日アルバイトの面接をし、男3人、女3人を採用。出勤してきたのは、男1人だけ。採用広告に20万使った。古参の使いにくいアルバイトを解雇して再編成を試みているが、そもそもアルバイトの寄せ集めで意図しているのは日銭を稼ぐこと。それでも、夢をもっている若者に入れ替えたい。将来、何かしたいとか、歌、劇、絵画、資格取得など将来に夢をもっている人に、夢の邪魔にならない仕事を提供し、応援したいと思っている。そういう何か違うことを真剣に考えている人を集め、ただ生活費を稼ぐだけという夢のない今のアルバイトの人たちと入れ替えていきたい。

有能なアルバイトをなぜやめさせるのかという批判が社内から聞こえてくる。そういう現場の社員の声に反論なり説明はしなかった。経営者の友人という立場で入社したので、売上貢献している間は、自由に業務改善とやらの変革ができる。将がかわれば仕方ないだろうというところだ。

12月31日(金)

「今これだけ社会や政治が動いているのに、あの時、新宿、成田、蒲田、東大、日大で血を浴びながら駆け抜けた人たちが沈黙しているのは、なぜなのかを知りたい。」

もう体が忘れてしまったのかも知れない。

静かに1年が終わっていく。昨年に比べて、平和な生活になっている。来年はどうなっているか、楽しみだ。

No.83 03年3月22日発行

1994年1月
外資から撤退して1年たった。

バブルの恩恵を受けて、あらゆる電気製品や事務用品の新製品を買いまくった残りがまだある。液晶パネル付のビデオカメラ、オールカーボンフレームでイタリアからサンプル輸入した自転車、ダイナブック、マックSE30、など。

ビデオカメラは箱から出してもいない。自転車は道路を走らせたことがない。PCはエクセルの表すら作っていない。ファクス、電子タイプライター、レーザープリンタなどいつでも事務所が開ける機材が未使用に近い状態で飾ってある。SOHOのモデルルームみたいなものだ。

まだバブルの清算に時間を使っている。外資では、だまされ、おどかされたりしながらも必死で生きてきた。それに比べれば、今は楽だ。脳が腐っていくほど刺激が無い毎日を休養として費やしている。

1月5日(水)
次男がきたようだ。帰宅したら、ドアに菓子折りとメモがぶら下がっていた。

1月8日(土)

弟が結婚するというので高輪の中国料理店で夕食を一緒にした。この店は何かの節目とか、大切な人に会うときとか何かを決めるときに使う店として決めている。社会に出て最初の3年間、ウェイターをやった店だ。3年目に現場から引き上げてくれた上司がいた。その後、本社に移籍するときに、この店で面接を受けた。そして12年後に外資に転職するきっかけとなった会食もこの店だった。

1月14日(金)

東京都食品衛生責任者の講習会に出席、10時間の講習だった。10問中7問正解。ただし、テスト結果ではなく講習会に出席すれば合格で、資格が認められるようだ。

1月31日(月)

浅草の川沿いにある、かに料理の店に主要なアルバイトを集めて会食。1月の売上状況を発表し、前年より増収の話をしたが、売上とか利益とかに関心の無い人たちであることに気がついた。

時給いくらで労働力の売り買いをしているだけということだった。

No.84 03年3月29日発行

1994年2月

3連休の2日目と3日目が25年ぶりの大雪で、打撃を受けた。高速道路は通行止め、行楽客は足止めとなった。それでも、2月は後半挽回して前年より9万円増の結果となった。

日銭の商売で、前日仕入れて当日に売り切るという繰り返し。これができれば、すこしずつ利益が蓄積される。毎日、硬貨を数えて翌日に銀行にいく。売り子を管理し、事故を起こさないように保守的な姿勢を維持することが、生き残りの必須条件のようだ。

経営者は、いつか新規事業をしようと原資を増やしているという。しかしながら、皮肉なことがある。資金を蓄えることに貢献してきた人たちは、新規事業立ち上げの人材ではないことだ。経営者のまわりには、何年もかけて作り上げた定型的な日常業務を忠実にこなす、計算できる社員が集まっている。新規事業は、外圧によって起業されることになるだろう。

3月

部下をある方向にもっていこうとするには、「いってきかせて、やってみせ、自分がやるからお前もやれ」というのでは、うまくいかないことがわかった。どうも、平均的な企業で、社員として期待される資質がこの組織には欠けているようだ。

そこで、身近なところから選択肢を少なくしていくことにした。究極の選択というわかりやすい決断を迫ることにした。たとえば、日常茶飯事の細かいミスには寛大な対応を約束するという取引をして、そのかわり「朝出勤したら、挨拶をする、帰る時には、帰ることを上司に告げる」を厳守するという最初の難関をクリアした。

4月

会社に新部門を新設してもらい、マーケティング課という名称をつけた。マーケティングマインドをもって毎日明るく仕事をしていこうという組織になればいい。定型的な業務で日銭をかせぐ集団には、中期計画とか現実的な将来計画とかいう姿勢なり考え方は馴染まないような気がするが、ひとつの意思表示である。

No.85 03年4月5日

Back to the Future: 2003年4月5日(土)

あるメルマガ発行者のコメントを紹介します。「人それぞれ強みと弱みを持っている。プロジェクトビジネスでは、その人の強みを上手くブレンドしてシナジーを出す事がポイントだ。そのためには、メンバーの持ち味と性格を十分理解する必要がある。その人の得意とする面でプロジェクトに参加して頂く。性格的に弱い面を理解して、弱い面がプロジェクトに影響しないように配慮する。メンバーがメンバーの弱い面を理解し、カバーしあう事ができれば良いチームができあがる。そうするには、メンバーのマインドが一点の目標に向かい、お互いがコミットしていないとダメだ。なかなかできないのが現実だ。人の持ち味は、メールの文面に見え隠れする。少なくともそれを読める 洞察力を日頃から養っておくべきだ。」

本編は、転職をキーワードにして第3部まで展開してまいりました。実際には、キーワードとして展開というよりは、子供たちへの父の言い訳から始まったメールマガジンでした。現在の第3部がバブル崩壊後の失われた10年と同じように、個人史では失われた4年となっています。「春のうらら=夢のあと」は隅田川の船下りの現場で、東京港お台場の「世界都市博覧会」というバブリーなプロジェクトが一瞬輝き、そして前都知事の中止宣言ではじけていくという、筋書きです。

外資での消耗戦の後遺症から、次は信頼性のある精鋭部隊を編成したいという脅迫観念のようなものが、その後の4年間に影響を与えていました。そこでは、冒頭に紹介した「人の持ち味を理解する」という視点がまったく欠落していたことに、恥ずかしながら今わかりはじめました。本当に、この方法でしか成功しないと感じています。これからのプロジェクトは失敗しないようにやらないといけないのです。ロスを取りもどす時間が残っていませんから。身の回りの出来事すべてを、プラスの面だけ活用していこうと考えています。

No.86 03年4月12日

1994年5月

学校を卒業して以来、毎月通い続けているバーバーがある。

このバーバーは、社員の福利厚生施設として運営されているものなので、料金は会社が一部補助しているため、安い。異動、転籍、転職、定年退職したOB が、安さも手伝って、いまだに利用している。会社は黙認している。予約制なのでマスターは、現役の管理職とOBが顔をあわせないように、配慮してくれている。

OBはマスターから会社の近況を話してもらい、噂ばなしをしながら過ごすひと時を楽しんできた。盆暮れなど季節の節目には、手土産を持参し、職場が遠くなっても、出張などを利用して顔を出してきた。バーバーにかける時間と費用は、かなりのものになっているが、昔通った通勤路を歩き、若いときに味わった体験を話すときにマスターが打ってくれる相槌がたまらない。

バブルの時代を十分に味わったのだから、今はその時の「おつり」で暮らしているようなものだとマスターがよくいう。「あんたは、いい時を楽しんできた。幸せだよ。」といわれると、納得してしまう。限界を感じて辞めた職場の近況をマスターから聞いて、今まで選んできたことが、そんなに間違ってはいないと自分に言い聞かせている。

1994年6月

生活が落ち着いてきたが、社内には敵対的な態度を示す古参の社員がいる。年齢が近い分、摩擦が起こりやすいのかもしれない。長年住む世界が違ってきたために、身についた常識に重なり合わないところがある。同じ言葉、行動が別の意味を持つことがあり、事業計画達成ということでは組織がまとまらない。まだまだ、会社はなりふりかまわず延命策を考えるほど追い詰められてはいないということだ。バブルのつけというよりは、「おつり」が残っているので危機感はない。

あだ討ちで、追われる立場にあるものは、できるだけ逃げ隠れするのが武士道だと時代劇が教えてくれた。決着つけず、認否保留にするいい口実を見つけた。

No.87 03年4月19日

1994年6月

営業会議での世間話をした。

「身近な人が持っているものを見てほしいと思うと、相手より少しでもいいものがほしくなる。

大事なものは手に持つそうだ。

人は小声と低音に弱い。低い声、小声でささやかれると気になってしまう。

ほめれば親しくなれる。

物を売るには、限定品、個性的、時間がないというのがキーワードだ。

不景気のときは和風になる、安上がりだから。」

これではいけないと思いながら、バブルのときの思い出だけが財産になってきたような気がする。しかし、一時かなりの部分を賭けたことを、忘れてはいけない。

天気が一番だ。晴れの日は、日の光を浴びて、遠くを見つめて生きていきたい。

かっとした時に、ストレスのはけ口として、欧米のTVや映画のシーンで身の回りの家具や食器を壊すシーンがある。いわゆる「物にあたる」ということか。これをやってみた。どうしようもない怒りというか、感情の高ぶりを別の方向に逃がしてやろうと、テレビをベランダに投げ捨てた。大きな音がした。やみつきになるかもしれない、快感だ。

7月

金は能力についてまわるとヘッドハンティングのコンサルタントがいっていた。今はそんなに欲しいわけではない。あればあるだけ使ってきた。なければないですんでしまう。

「父親にほめてもらいたくてがんばっている」と言う人がいた。自分には関わり合いのないことだ。

外資での反省は、人の心を前面にだしてぶつかっていったことだ。平気で騙すビジネス界の先輩たちにずいぶん踊らされたものだ。

No.88 03年4月26日

1997年5月

すぐ忘れてしまうので、再び同じ誤りを繰り返すことのないように覚書を残しておく。春のうららの隅田川での仕事はまもなく終わる。

まずは、最古参の社員に対するコメント。

「報告や指示したことをやり残す。作業完了のレポートがないので確認するとまだやっていないという返事がくる。何回注意しても改善されない。改善することを目的とした注意は実効性がまったくない。イライラしながら結果をレポートさせ追跡調査するような生産性のない仕事はしたくない。」

「必要なことで、彼にやってもらわなければいけない項目の中で、現在未着手の件が発覚したとき、なぜやらないのかと詰問し、経過説明を受けるのはもうやめよう。その後に向上が期待できないとしたら、現状をただちに回復してそれ以上悪くならないようにするだけだ。」

事例1 電話の取り方

新入社員の教育として電話の取次ぎで社名のあとに個人名を名乗らせた。秘書役のSは早速いつもと違うことをやっていると経営者のMに報告した。応えがすぐかえってきた。

「個人名は最後にいうのだ。社名を売っているのであって、個人名をだす必要はない。」

疑問が残った:社名に続けて個人名を名乗るのは、やってはいけないことではないだろう。

事例2 勤務中に雑誌を読むこと

「雑誌を勤務中に読むことを禁止しない。雑談をしてもいい、余裕をもって仕事をさせている。雑誌から情報を収集するのだ。電話が鳴ったらすぐとればいい。ただしすぐ電話をとらないと許さない。」と経営者Mがいう。

疑問が残った:Mの会社なので反論はしないが、納得もしない。頭の切り替えが瞬時にできる社員を抱えているとは考えられない。ウェイティングとアイドルタイムは違う。アイドルタイムや休憩中に雑誌を読むのは問題ない。コールセンターの担当者が、就業中に電話がかかるまで、雑誌を読んでいるのを許すわけにはいかない。

事例3 出勤時刻

「朝早く出社して売上があがるなら早く出勤させている。仕事があるときに時間内に集中して能率よくこなせばいい。」とMがいう。

また、疑問が残った:5分前に席について仕事をスタートさせるのは社会人の第一歩をある。

反省:普通の企業の常識を適用したことが間違いの始まりだった。

事例4 机の上を整理整頓すること

「個人の机上の整理について細かい指示をするな。個人の好みにまかせればいい。帰社時に書類を椅子のうえに置かせるな。」とMがいう。

反論:細かい指示を出しているのはどっちかな。退社時に机の上を整理し何も残さないようにするのは、否定的なものではない。翌朝掃除するのは楽だろう。

反省:書類を放置したまま外出することの問題を提起したのだが、所詮放置して問題のあるような重要なものはなかったのかもしれない。

No.89 03年5月3日

1997年5月

すぐ忘れてしまうので、再び同じ誤りを繰り返すことのないように覚書を残しておく。

「春のうららの隅田川」は、青島都知事の「世界都市博覧会」中止のおかげで、お台場への水上アクセス独占というバブルがはじけてしまった。そこで、4年間の総括にはいった。

事例5 送別会での過剰反応

「Nはカラオケが好きな子だったのに、二次会をやってやらなかった。HTには送別会を開かなかった。Kの歓迎会は仲間から盛り上がってやったものではなかった。」と経営者のMに責められた。

分析: Nは勤務態度が男性社員には不評だった。心の通った送別会ではなかったかもしれない。HTは仲間や会社に納得がいかなかったので退職した。本人は送別会を辞退した。Kの場合は、取締役Fのスケジュールを先に聞いて日程を調整したのが気に入らなかったのだろう。送別会をやると決まって経営者Mは文句をつける。Mは何か送別会にからんで心の病を持っている」

事例6 事務所の雰囲気

「取引業者の配達係が事務所の雰囲気が暗いといっている。」と経営者Mが文句をいう。

疑問: 出入り業者が得意先の悪口をいうかな。逆にMの業者や飛び込みセールスマンに対する乱暴な言動は、サービス業出身者としては恥ずかしい。あの間抜けな赤坂のホテルの用度係と同じだよ。」

事例7 役員秘書S嬢にリークされた

Sが些細な社内の動きを上司である経営者Mに報告している。重箱の隅をつつくような指摘をMから受けた。

反省: MがかわいがるS嬢に対して、配慮と慎重な対応が欠けていた。屑のような情報しか秘書Sには流れなくなっていたのが、逆に命取りになりそうだ。Sの情報収集機能がネックになっていることに経営者Mが気づいていない。S嬢がもたらす屑情報をもとにMが経営判断をし始めていた。このリスクに気がつくのが遅れた。上司の女には気をつけるという危機感が抜けていた。

事例8 電話の取次ぎ

「電話を回す際、3回以上ベルをならすな。狭い事務所で3回なっても電話にでなければ席をはずしているのだ」と経営者Mが指示した。

秘書のS嬢あてにいつもの男性からの私用電話がかかってきた。女子社員HKは指示通り、転送のベルを3回ならし、出なかったので男性に不在と応えた。

経営者Mが女子社員HKを叱責した。「Sさんは走って電話をとろうとしたが、ベルが3回なって切れてしまった。時と場合をよく考えろ」といった。

反論: S嬢は定時には出社せず、昼は1時まで外食。1時に内線にでなければ昼の外出から戻っていないと考えてしまう。

No.90 03年5月10日

1997年6月

すぐ忘れてしまうので、再び同じ誤りを繰り返すことのないように覚書を残しておく。「春のうららの隅田川」は、青島都知事の「世界都市博覧会」中止のおかげで、お台場への水上アクセス独占というバブルがはじけてしまった。そこで、4年間の総括にはいった。

事例9

女子社員マニュアル発端: 前日の売上金を、午後銀行に入金するために昼休みに、金庫の近くの机上に置いた。従来は金庫の上に置いていた。秘書S嬢がそれを経営者Mに報告した。M: 金を放置。事故がおきたらどうする。金庫に保管するのは常識だ。無責任だ。K: 女子社員マニュアルに入金前の売上金は金庫に保管するという文言がないので追加したらどうかと女子社員Nにいった。M: マニュアルはSさんがまとめたが、俺が監修した。マニュアルは俺が作ったのだ。俺を馬鹿にしているのか。金を金庫に保管するのは常識だ。マニュアルに書くことではない。朝出勤時に水をヤカンにいれて湯を沸かすということをマニュアルにいれるのか。K: ヤカンは3年前から使っていない。Mが日頃常識がないと指摘している社員を対象にしたマニュアルなのだから、重要なことはたとえ常識の範囲であろうと明記したほうが良いと考える。反省: これは秘書Sの仕事の内容を批判したことが、経営者Mの琴線に触れ、感情的なもつれに発展していった。

事例10

ネズミとゴキブリ対策M: 朝日消毒を2年前から使っていない。ネズミゴキブリ対策をなぜやめたのか。長年の経験によってやってきたことを、ド素人が勝手にやめるな。言い訳: 費用対効果でやめた。ホウ酸団子やゴキブリホイホイで対応している。反省: 最古参の社員Hが担当しており、経緯を聞いていなかったので即答できなかった。最古参の社員がMに相談して変更したことでも、経営者Mは、己以外はド素人と評価している。一方、最古参社員は、聞かれなければ答えない。その上、答えはミニマムだ。今は方向性を提起したり課題を与えたりして何か前向きな行動を期待する段階は終わっている。必要なことでやっていないことが出てきたら、その場で修復して現状を悪化させないようにメインテナンスをしていくのが、ストレスのないやり方だと思いはじめている。「何故やらない、何故やらなかったのか」の最古参社員の答えはいつも決まっている。「うっかりしていた」。後回しにしてきた怠慢の産物である。

事例11

仮払いM: 会社だぞ。今日いって今日金が出せると思っているのか。バカタレ。反省: 8万円の仮払いを週明け月曜にほしいと、5日前の水曜に金額を秘書Sに伝えた。Sはすぐに現金が必要とMに伝えた。足元をすくわれていることにまだ気づかなかった。疑問: 信頼関係のなくなったところで、売上をあげていくことができるだろうか。10年来の付き合いを絶つのを躊躇していたが、吹っ切れそうだ。情けないことをいわれて、このままプライドを隅田川のどぶに浸けておいたらきっと後悔するだろう。山根氏が名を惜しむといったことを思い出した。彼は悪人だがプライドをもっていた人だった。

No.91 03年5月17日

おしらせ

本編は、バブル後の4年間をテーマにしてきました。次のバブルを期待した「世界都市博覧会」にむけてインフラの整備をしている前半と、中止になったことでビジネスがシュリンクしていく後半に分かれていました。バブル崩壊で受けた傷のリハビリのつもりで仕事をしていましたが、会社が大きく展開していくトリガーであった「お台場への水上アクセス独占」のバブルがはじけた時点で今までのキャリアを強みにして、会社の発展に貢献する場がなくなってしまいました。展望が切り開けなくなった時点で、内容が薄くなっていることがわかりましたので、本編をそろそろ切り上げて、次のテーマを進めてまいります。6月から、IT企業に転職した経緯と異業種での新たな出会いを中心にした内容に変わっていきます。どうかよろしくお願い申しあげます。

1997年7月

すぐ忘れてしまうので、再び同じ誤りを繰り返すことのないように覚書を残しておく。「春のうららの隅田川」は、青島都知事の「世界都市博覧会中止」のおかげで、お台場への水上アクセス独占というバブルがはじけてしまった。

7月8日

最後の挑戦この2~3日、睡眠不足。何か今よりましな仕事ができないものかと考えている。現状を変えなければ時間の無駄遣いだ。今の状況で経営者と折り合っていくことは不可能ではない。しかし、反面失うものがある。自分の誇りと意地を捨ててしまうことになる。ペテン師でさえ、名を惜しむのだから、これはしたくない。たとえ次の立場が悪くても軽く見られても我慢するような、情けないサラリーマンにはなりたくない。

7月15日

辞表提出家庭に問題があるのではないかと経営者Mがいう。問題を抱えているのはMの方だ。展望の開けない会社にいて何になる。事務所を暗くしている張本人だという。社員に後ろ指を指されているのが気付かないのかという。お互いさまだ。辞めた人間をここに集めたら袋叩きにあうだろうという。リストラの助言はしたが、人事権を発動したのはMだ。4年間で7人が会社を去り5人が加わった。アルバイトは年間30人が入れ替わった。社員の欠点ばかりを報告してきたという。そのとおりだ、長所を報告して喜ぶMではなかった。自分のミスは隠し他人の批判ばかりしてきたという。Mの嗜好にあわせ改善点を指摘してきたのだ。二代目の実兄のパワーゲームに踊らされていることにMは気が付かなかった。

天気がよくて売上が上がれば、天気のおかげだという。天気が悪くて売上が減れば、努力が足りないという。4年間、5億円の年商が一度も前年を上回ることがなかった。バブル崩壊の後遺症がまだ残る。

ずいぶん回り道をした。この4年間はバブル崩壊の後遺症を治すためのリハビリ期間であった。ドイツでの5年間は欧米のビジネスエリートたちに翻弄された。次のこの4年、居心地が悪くなかった反面、蓄積してきたキャリアと時間を浪費してしまった。焦りを感じながら、次のステージに望みを賭けた。

「父の転職AtoZ」春のうらら=夢のあと
No.92 03年5月24日 (最終号)

お礼

本編は、90年代前半のバブル崩壊後の4年間をテーマにしてきました。次のバブルを期待した「世界都市博覧会」にむけてインフラの整備をしている前半と、中止になったことでビジネスがシュリンクしていく後半に分けて展開していくつもりでしたが、ビジネスがシュリンクしていく状況はあまり魅力がないことがわかりましたので、きりあげさせていただきました。来週からは、上場を目指すIT企業に転職した経緯と異業種での新たな出会いを中心に話をすすめてまいります。

「父の転職AtoZ」春のうらら=夢のあとを「了」といたします。
次回からは「父の転職AtoZ]異業種=情報処理産業を展開してまいります。

内容といたしましては、異業種での挑戦というよりは、まったく違う文化と行動パターンをもった人たちを紹介していきます。システムズエンジニアと呼ばれる高度情報技術者集団の中で出会った人たちの否定的な部分にはなるべく触れず、肯定的な側面に注目してまいります。

この匠の集団の企みが必ずや日本を救うであろうという感じがいたします。

これまでお付き合いいただきありがとうございました。ひきつづき、よろしくお願い申しあげます。
Back to Top of Page

第三部 春のうらら=夢のあと
付録:あとがき集

毎週土曜日発行 (2002年11月16日~2003年5月17日)

68号 2002年12月7日

先日、朝のラッシュ時の地下鉄車内で、「渋谷のヤマンバ」の原型かと思われるようなご婦人が、甲高い声を発しました。どうやら、ベレー帽をかぶった紳士が足を踏んだようです。ご婦人が悲鳴をあげ、そのあと「謝れ」と叫んだのですが、この紳士は「混んでいる車内で、・・・」ということで無視しました。そこで、このご婦人は次の駅で降りて駅員に通報しました。

ここから意外な話になりました。通報を受けた駅員は、通勤車両を緊急停止し、社内に乗り込んできました。そして「ご婦人が暴行を受けたと訴えている」といって、足を踏んだ紳士を降ろし、電車を発車させました。発車した途端、「ただ今の停車は、お客さま同士のトラブルでした」というような社内放送が流れました。

電車が一時停車したことの迷惑感よりも、巻き込まれた紳士の災難を思うとご婦人の行動が恐ろしくなりました。「怖いですね」

73号 2003年1月11日発行

あわただしく年末を過ごした反動でしょうか、正月は最小限の義理を果たしただけでじっとしていました。昨年1年は病気や怪我に無縁で風邪もひかずに元気に暮らしてきました。おかげさまで、毎年新しい挑戦の機会に恵まれていますが、だんだんと対応するスピードが落ちてきたような感じです。体力がなくなると気力も半減してきます。やはり健康でないと勝てるゲームを落としてしまいます。ビールと肉食を控えたいものです。

74号 2003年1月18日発行

東京ビッグサイトでベンチャーフェアJAPAN2003が開催されました。ノウハウセミナーのプログラムのなかに、「日本でまだ成功していない海外一流ブランドの開拓に成功したベンチャーの成功事例」がありました。一時、そのような事業を夢見たわけですから、早速期待して話を聞きに行きました。

「1966年高校を卒業し、工場に就職。そこで何か特技を身につけなければだめだと思い、独協大学に入学しドイツ語を習得。商社に入社して7年間デュッセルドルフに赴任。ドイツ語圏でのビジネスを経験。その後、商社でリストラに遭い独立。」

彼の話は、ブランドマーケティングの話題ではなく、これから独立する人たちに向かって、辛口のメッセージを発信していました。「会社を辞めさせられるまでは、じっと我慢していたほうがいい。それまでに、十分に自分の特技を活かす準備をすること。」

75号 2003年1月25日発行

今年から、ビールを飲むのを止めました。自宅ではワイン2杯を食事とともに飲むことにしました。外では、焼酎のお湯割り梅入りとしています。美味くはないのですが、体にいいと思って飲んでいると、細胞が活性化し悪さをしないような気がします。

76号 2月1日発行

先週は38.5度の熱による頭痛と寒気に悩まされていたのですが、2週間近く接続ができないIP電話の件で、自宅に鎌倉から2名の技術者が来てくれました。 このIP電話サービスは、プロバイダを選ばず、常時接続の環境にあるユーザ同士は無料、固定電話には全国3分8円しかも2月3月は固定電話に無料でかけ放題という魅力的なものです。ところが、建物の外までは光で建物の中はLANという環境がこのシステムと相性がよくなかったようです。こちらのクレームに対して、先方はすぐにサービスの定款を変更しました。しかし、こちらの契約は定款変更前だから何とかしてもらえないかと、お願いしました。先方は、契約している外注工事業者に委託しては、2月からの固定電話に無料でかけ放題のサービスに間に合わないからということで、特別に社内の技術者をオンサイトの無料サポートにまわしてくれました。

何回もコールセンターに電話をして不具合の調整の方法を教えてもらったのですが、そのたびに接続できないとクレームをつけたユーザとしては、もし技術者が来て、簡単に設定してしまったら恥ずかしい思いをすることになります。車でたとえれば、高速道路でJAFを呼んで、原因がガス欠だったようなものです。不幸中の幸いというか、専門家の作業でも接続に成功するまでに2時間かかりました。

新しいサービスというのは、初期には不具合がでてくるのは仕方のないことでしょうが、ユーザとしてあきらめなかったことが良かったと思います。サポートに満足しました。このIP電話サービスをご紹介します。IP Talk (アイピートーク株式会社)です。

先週、日本酒の蔵元で、蔵出しのイベントがあり甲府に行ってきました。国の迎賓館で日本酒を要人にサービスする際、50種の銘柄のひとつに選ばれているそうです。この蔵元は当地の名家で、明治天皇が30歳のとき日本各地を行幸されたときに1泊された母屋が公開されていました。明治天皇が使われたものは一切残されないそうですが、食事に使われた箸だけが残され展示されています。風呂もトイレも持ち込み、そのための建物は仮設します。風呂の残り湯は、万病に効くとされ行列ができたそうです。宿泊代として、現在の価値で200万円相当が支払われたそうです。しかしながら、付き人が400人いました。民としては末代まで名誉として語り継がれますが、膨大な出費であったことでしょう。

昔、英国の皇太子が米国に行った際、ハリウッド出身の米国大統領は緊張のあまり、歓迎レセプションのスピーチで、声が上ずっていたことを思い出しました。王家とか天皇家とかの人たちには、民を圧倒する何かがあるのでしょう。英国の元首相(女性)とロンドンで握手した写真が我が家では家宝です。

79号 2月22日発行

先日、倒産事件を多く扱っている弁護士先生の講演がありました。そこで聴いた会社の危険信号の一部をご紹介します。

まず経営者の問題としては、公私混同、プライベートに問題があるなどのほかに、本業ではない不動産とか飲食業に関心を持ち始めると危ないそうです。不動産業は転がすとまとまった金が手に入ります、また飲食業は日銭が入ります。この会社はキャッシュフローに問題を抱えているということになります。それから、経理・財務担当が夜遅くまで会社に残っていたり、大きなかばんを抱えた人が出入りし始めたりすると危ないそうです。倒産処理手続きをしている可能性があります。

No.82 03年3月15日発行

出勤時間帯に駅の改札出口で配っているティッシュペーパーの話です。近頃、幼稚園児の間でプレミアになっているものをご存知ですか。TVのコマーシャルで犬が人気になっているアイフルのティッシュペーパーです。非売品ですから、ユーザで無い限り、朝の出勤時に手に入れるしかありません。車で通勤したり、出勤時間が遅かったり(夜は配布していません)、近くに支店が無い駅を使っていると手にはいりません。子供たちは10個20個と同じものを集めて喜んでいます。

No.83 03年3月22日発行

Operation Liberty Shield

3月20日、とうとう始まりました。12年前と違うのは、今回は911のニューヨークのテロがあったこと。大学のクラスメートが日本人として犠牲者に含まれているので、テロリストに対する戦いという側面では、問答無用で戦争反対というわけにはいきません。もし東アジアの半島からミサイルが飛んできたらどうしますか。高倉健の任侠映画の筋書きを認める人がたくさんいるはずです。

前回の日本は、まだバブルを謳歌していました。商社が社員の海外出張を禁止するなかで、ミュンヘンからアトランタに移動した際、フランクフルトの空港では別室に案内されて手荷物のPCを細かく調べられたり、目覚時計や電卓は24時間保管するというので所有権放棄をしたりしました。アトランタでは、「砂漠の嵐作戦をサポートする」というキャンペーンバッジを着用して会議に参加したことを思い出しました。

No.84 03年3月29日発行

先日、セミナーで聞いた小話を紹介します。

まず、意欲と責任感と使命感の違いについてです。

意欲:自分のために自分ががんばる気持ち。

責任感:人のために、自分の役割としてやる気持ち。

使命感:自分の意思で、世のため人のためにやる気持ち。リーダーはこういう気持ちを持っていなければいけないそうです。

また、現在の日本の不況を、タイタニック号の乗客にたとえていました。船室にいる乗客は、窓から氷河を見ているのですが、景色として見ているようで、まさか自分の船がこれから沈むとは思っていないのです。

日本が東アジアで一番であったのは、この50年間のある時期だけだったのかもしれません。一方、この50年間が、中国にとっては何千年の歴史の中で、極めて異質な時代であったようです。

No.85 03年4月5日

今週末は桜がピークですが、雨が降っています。ソメイヨシノは、江戸時代に品種改良された桜だそうで、寿命が100年から140年といわれています。ということは、今全国で咲き誇っているソメイヨシノはそろそろ終わりが近づいているということになります。また、桜の枝を折ってはいけないというのは、理由があります。人工的につくられた品種なので弱いそうです、折った傷口から雑菌が繁殖し寿命を短くしてしまうそうです。

No.86 03年4月12日

今週小学校の入学式に参列した人から聞いた話です。

最初に国歌斉唱がありました。歌っていたのは、校長と教頭、それにPTAの一部だけでした。幼稚園では国歌を教えないので、1年生はほとんど歌えません。そして、その新入生を担当する教師たちは、全員口を開きません。また、式を始める際に、司会役の教頭が「起立、礼」と号令をかけたのも気になりました。参列者の頭をさげる先にあるのは、国旗でした。国旗に、頭を下げ、国歌を歌うところから公式行事が始まるのに違和感があるわけです。

ただし、校歌の扱いは別です。企業でも、イベントで社歌を歌いたくない社員は少ないでしょう。企業は、運命共同体として目的を共有し求心力を維持するためにいろいろなことを実施します。たとえば、社会人野球で勝ち進み、球場で社歌を歌うのは、いいものです。高校野球の応援歌と同じで、いっとき社員がひとつにまとまります。ビールを飲みながら応援できたらもっとよかったかもしれません。

Ask what you can do for your country.

No.87 03年4月19日

葬儀でのひとこま。

斎場の係員が、各業者に渡す寸志を、あらかじめ小袋に名前と金額記入して持ってきました。そこには、ハイヤー2000円、マイクロバス3000円、霊柩車5000円、斎場職員5000円、各業者10000円とありました。指定した金額を袋にいれて通夜の前に担当者に渡すと、あとは配ってくれるそうです。

婚礼でも心付けを各方面に用意しますが、この場合は準備をする時間がたくさんあります。葬儀の場合は取り乱しながら即日に決めて実行しなければならないので、当事者は寸志を渡す気持ちがあっても、つい忘れてしまうかもしれません。そういう意味で、喪主や施主に代わって細かい気配りをしてくれています。でも、いただくものは、しっかりと事前にいただくという商売人のノウハウかなと、ふと思ったりします。

No.88 03年4月26日

最近は、出勤前にTVの星占いを見ています。今日の星の動きが悪いときは、それを跳ね返すおまじないをなるべく実行するようにしています。もう右肩あがりの経済成長はなくなったのですから、何もしないとどんどん悪くなってしまいます。何かをすれば余命が少し伸びるというところでしょうか。長く生きていて良かったという時代が来ないと悲観したら来るものも来なくなります。

まずは、物理的な体力をつけて、困難な時代をしのいで暮らしていきましょう。

No.89 03年5月3日

新宿2丁目の近くにある外資ソフトウェア会社がとうとう清算のフェーズにはいりました。そこで、これを酒肴にして昔の仲間が集まって、ビールを飲みました。酒の上とはいいながら、KPY5さんより衝撃的な情報がもたらされました。

最近の日経かどこかでやった調査によると、アジア20数カ国の英語力を比較したところ、日本がブービーメーカーということです。そして、もちろんブービー(英語力で最下位)は北朝鮮です。ああ、情けない。

君が代は歌わなくてもいいから、教師はしっかりと若者たちを教育してほしいものです。小学校ではパソコンは課外教育だそうです。自宅にパソコンのない児童にとって、ローマ字入力をマスターする機会は少なさそうです。

学校に通うと勉強する時間が少なくなりそうです。なんでだ?なんでだろう?

この内容はメールマガジンに連載した内容を転載したものです。
発行責任者:吉野輝一郎

PAGE TOP