父から子たちへ

子は父をいつか越えようと思う。成人し、父を超えたと自負する。時がたち、越えられない父の偉大さに気がつく。転職をキーワードとして、今度は父として子たちへ、メッセージを伝えていきたい。

 第一部 父から子たちへ
 (2001年8月25日創刊)

 第二部 外資=博打のバ とギャンブルのブル
 (2001年12月1日創刊)

 第三部 春のうらら=夢のあと
 (2002年11月16日創刊) 

 第四部 異業種=情報処理産業
 (2003年6月1日創刊)

 第五部 再びアイアコッカをめざして
 (2004年5月29日創刊)

外資=博打のバとギャンブルのブル 15号 01/12/01

■はじめに。

8月25日創刊より、本日まで辛抱強くお読みいただき、まことにありがとうございます。
これから、第2部:1988年4月から1992年3月(外資での博打のバとギャンブルのブル)を展開していきます。第二部の内容については、登場する人物や企業から商権やプライバシーの侵害とかで訴えられないよう、「登場する人物、企業などはすべてフィクション」という設定です。

続いて第三部、第四部と現在に至りますが、思えば、90年代のバブル、青島さんが潰した世界都市博覧会のバブルそしてITバブルと、それぞれの節目で転職というテーマが出てきます。「父から子たちへ」というメモは第一部で完結したと思って書き残したのですが、どうやらライフワークになりそうな世の中になっています。もうしばらく、お付き合いをお願い申しあげます。

■目次
・バブルの兆し
・総括
・リフレッシュ

◆バブルの兆し -ブラックキャブ-3万円クラブ-

-ブラックキャブ-

10年前の4月2日

ロンドンからヒースローに向かう、ブラックキャブのドライバーから聞いた話。

「英国の不景気は深刻。道路には通行人がいない、商店には買い物客が少ない。サラリーマンは、月給はもらえるがオフィスにいっても仕事がない。タクシーも、日本人がいる地区をテリトリーにしている運転手には仕事があるが、それ以外の地区ではタクシーを利用するお客がいない。S石油が3000人のレイオフをした。

今年になって15000社が倒産した。労働党か保守党のどちらが政権をとるかわからないので、企業はどういう風にしていくか、方針を決めかねている。したがって投資がおこなわれない。つまり仕事がない。」

翌日のパリ、シャンゼリゼの店には買い物客があふれていた。世界中からお金をもっている人がパリに集まり、買い物をしている。

-3万円クラブ-

パリから初夏の南仏、アクサン・プロバンス。

テニスラケットの販売価格についてのセッションにて、米国は安い価格帯しか売れないという。日本はオーバーサイズ、いわゆるデカラケが流行している。3万円クラブといって、3万円台のラケットが話題になっている。安いものより、プロモデルが好まれる。

日本では、主婦がスーパーに買い物に行くとき、ファッションとして買い物袋の中にテニスラケットをいれている。とにかく、高いもの、有名選手が使っているブランドや、モデルに関心がある。

夕食では、会議参加者はビジネススーツから明るい色のジャケットに着替え、ご婦人を同伴していた。食後にダンスを楽しむカップルもいた。

◆総括

1993年3月
振返れば、ハンディを負ったスタートをしたものだ。

1)英語は理解できたが、外国人を相手にしたビジネスの経験がない。
2)工場での製造、店舗での商品売買の経験がない。
3)財務諸表に詳しくない。
4)ビジネスレターの書式を知らない。
5)詐欺師との付き合いがない。

したがって5年間の外資で、すべてを経験したことになる。一度入社してしまえば些細な問題になると思い、転職した。しかし欧米のビジネス環境は初めて経験す者には、かなりの忍耐と強運が要求された。同僚は、食事をともにするという社交的な部分では問題ないが、いざビジネスという場面では掌をかえすように態度が変わる。経験不足や無知に対しては容赦なく攻撃してくる。彼らにとって仲間は少ないほうがいい。分け前が増える。いつも新入りは村八分の危険にさらされる。

これは時間が解決してくれた。理由はともかく、最初の3年間でライバルや障害物は目の前から消えていき、それにつれて責任範囲が拡大していった。これは実務の経験を深めるのに役立った。

もうひとつ問題があった。上司の能力的限界と不品行であった。
彼は、「ほんの少しの真実を隠し味にして」嘘をつく。
周囲にいろいろな嘘を撒き散らす。それを知っていながら、日々の忙しさにまぎれて先送りにしてしまった。

これのもたらす結果は自らが詐欺行為の共犯になってしまうことである。そして、嘘をつかれたり、踊らされたりすることに免疫ができてしまう。

◆あとがき

ロンドンのタクシー運転手との会話は、先週末、部屋の模様替えをしているときに出てきた「マイクロカセットテープレコーダー」に、録音されていたものです。偶然見つけました。あの頃、英国の不景気は、斜陽の大英帝国だけの問題かと思っていました。米国は大量生産・大量消費で元気がよく、日本はエコノミックアニマルが、肩で風をきっていました。

博打と同じで、いつかは負けると知っていながら、今は負けていない、まだ勝ち続けると思い、バブルの時代を過ごしました。バブルがはじけてから、事実に目が覚めたわけです。

それから、第四部の話題を紹介するのが待ちきれなくなったので、同時にもうひとつメルマガを創刊することにしました。300円の生ビールのつまみにでもしてください。

タイトルは「ビジネスドキュメンテーション 金言」です。周囲にいるとんでもない輩のたわごとを、磨いたら玉になる可能性もあるかも知れないと考え、金言として紹介しようというものです。

本号より、リフレッシュコーナーを設けました。古賀院長の協力をいただき次回は「風邪をひきそうなときの予防」をご紹介する予定です。ご期待ください。(2週間に1回かもしれません)

次号は12月8日に発行します。

16号 01/12/08発行

■はじめに。

本号で「登場する人物、企業などはすべてフィクション」です。

1988年から1992年の間で経験したできごと、トピックスを紹介していきます。その場にいた読者の方には、グーテアルトツアイトを懐かしんでいただければと思います。バブル後に順番がまわってきた一世代後の方々には、参考事例としてお楽しみください。
そして、父から子供たちへは、自分に降りかかる火の粉をはらうのが精一杯であった当時の状況を伝えておきたいと思います。

■目次

・トリガー
・トレーニングのはじまり
・ニュールンベルグの小川のほとり
・CEOと歓談

◆トリガー

1989年11月24日

外資に転職して、2年近くになる。あっという間であったが、新たな局面を迎えることになったので、「息子たちへの手紙」を書き始めることにした。

この直接的な契機、トリガーとなったのは、つぎの会話である。

田原:代表、何かいうとったやろ。
KPY:そうですね。
田原:うそばっかりや。
では、1988年4月から始めよう。

◆トレーニングのはじまり

ヨーロッパでの長期社員トレーニングが始まった。

1988年4月16日、Transmar Hotel
ラケットのプロダクトマネージャー、ルコントとの会食
ルコントは食後、サインをした伝票の下にチップを置いた。
以後、レストランでの支払いでは彼のやり方を手本にした。

初めてスカッシュをした。若い人たちがカラフルなウエアでプレーをしている。この施設の利用は25歳から35歳の女性が40%を占めているそうだ。

プロショップがあり、そこでラケットやウエアを買う。商品には値札がついていない。買うときに店員に聞けばいい。

Rotenburg

1)日本人観光客が多い。
2)日本語のパンフレットがあり、博物館には日本語の導線看板がついている。
3)土産物には日本語が表示されている。店員がカタコトの日本語で応対する。
4)ブラックフォレストの鳩時計には日本語の使用説明書がついていた。
5)銀行での両替にはパスポートが必要だった。

4月19日
フランスのストラスブール近郊にあるオーベルジェにて。

サッカーボールの責任者と昼食。

量が多いからといって、シェフに「スモールポーションで」というのはよくない。全部食べてしまうと、コックは量が少なかったのではないかと心配する。好きなものを好きなだけ食べて、後は残せばいい。そうするとコックはお客が十分に食べたと思う。(この話は初めて聞いた。本当なのか。)

コースの後に、チーズのワゴンがまわってきた。いつも食べていないからと断ろうとすると、野蛮人かといわれた。フランスではワインとチーズのない食事は食事ではないという。

次に彼が日本に来たときは、味噌汁を飲ませてやろう。味噌汁のない和食はないから。

◆ニュールンベルグの小川のほとり

1988年4月28日
ヒットラーゆかりの地ニュールンベルグの郊外。村の真ん中を小川が流れている。

その川をはさんで、兄弟が別々に創業した会社の本拠地がある。このふたつの会社は、競合している。業種が同じだ。兄の会社の社員は村の教会や買い物に行くときに、弟の会社の前を通らないよう迂回する。弟の会社の社員がどうしているかは知らないが。

両社には資本関係はない。弟が創業した会社はすでに人手にわたり、プランド名だけがドイツの香りを残している。人材の交流もない。

人材は米国ポートランドにあるエキン大学からが主流だ。エキンと、ビスケット会社の幹部がこの業界で活躍している。

15年間、鉄道と百貨店を営むファミリーの会社にいた。今度はヨーロッパで、兄弟がつくったブランドで競うファミリー企業に身をおくことになった。

◆CEOと面談

ドアの前には何も表示がなかったので、場所がわからなかった。
CEO:費用がロスにならないよういろいろなところを変えている。

KPY:小林がよろしくといっていた。1月1日付で仲間に加わる。
CEO:小林は自分の柔道の先生だ。
KPY:周りから、CEOの日本語は上手かと聞かれる。私は日本語で話をしたことがないのでよく分からないと答えている。
CEO:日本語を忘れないようにと、代表がテープやレコードを山のようにくれた。日本の夏は湿気が高いが、日本人は熱い風呂につかっていつも清潔にしているので臭いがない。

3000人の社員を減らすそうだ。親子2代でブランドを育んできた社員を解雇する。そのことが、日本人社員を増やすことに摩擦を起こしそうだ。

CEOは30代。若い。スイス人で異業種の出身。マーケティング畑で、たたき上げの職人ではない。マイスターの社会で何年もつかとささやかれている。

◆あとがき

ちょうど今週はボーナスシーズンです。

種嶋さんの失言をご紹介しましょう。この話題が楽しみというレスをいただいたので、読者サービスについ力が入ってしまいます。

この間、種嶋さんが「今回のボーナスは期待しないほうがいい。あまり出ない。フ、フ、フ」と部下に冬のボーナス支給についての経営者の判断を伝えました。

社員は耳を疑いました。

かつては神童とよばれたであろうこの人の脳は、風化してしまい、スポンジになったのでしょう。「フ、フ、フ」とは不謹慎な。種嶋さんは、株主でもある社員をあまりにも馬鹿にしています。社員をなめるんじゃありません。笑ってごまかすわけにはいきませんよ。社員の期待を裏切るような額しか支給できなかった経営責任を、忘れちゃいましたか。責任は、経営会議の決定に従って働いた社員が負うのですか。まずは、「社員の皆さん、ごめんなさい」でしょう。痛みを分かち合うために、社員と役員の役割を交替しますか。

人徳とか人間的な魅力とか、リーダーシップとかに問題がある種嶋さんのような経営者にでも、部下が従う理由は、ただひとつ、社員と経営者という「賃労働と資本」の論理なのです。

そんな幹部を放し飼いにしている会社は、何かおかしいですね。この会社は間違った空気が支配しています。株主なら、これ以上この会社に投資するわけにはいきません。負け組みですから。

でもNOといえない、しがないサラリーマン。ランチに誘われたら来客があるからと断るぐらいはやりましょう。

そして、種島さんありがとう。おかげで、毎晩、酒肴には不自由していません。

17号 12月15日発行

■目次

・マーケットリサーチ
・ホフブロイにて
・ロベルト
・リフレッシュ:「風邪の予防・・ゾクゾクと寒気がしたら・・」

◆マーケットリサーチ

1988年5月 西ドイツ、ニュールンベルグ市内

デパート。

屋上への通路に鉢植えの細い桜の木があった。桜の花がいくつか咲いていた。鉢植えは、日本では見たことがなかった。

スポーツショップ。

買い物をした。買い物の仕方がちがった。まず買いたい商品をクロークのようなところに持っていく、かわりに半券をもらってレジへ行く。そこで支払いをすると半券にスタンプを押してくれる。それをまたクロークへ持っていくと買った商品がもらえる。

店員には「ありがとう」とか笑顔はなかった。お客は王様ではない。商品とお金を交換する対等な取引関係だという。

1ドイツマルクが100円近いので、商品には割安感がない。

◆ホフブロイにて

5月 ミュンヘンのホフブロイ

大きなビアホールだ。ビールは、こんなにうまかったかな。
ビールを飲みながら、グループ会社の米国人から聞いた話。

1 「カカトにエアをいれて、クッション性を高めるシューズ」

当時のドイツ開発チームはこのアイデアを否定した。世界一を自負するドイツ人としては、クッションより安定性を選んだ。

そこでこのアイデアは、新興の米国メーカーに持ち込まれた。ここの創業者はこれを採用した。これが、「XXXエア」というエアシリーズの始まりである。それまでナイロン製のランニングシューズの在庫を抱えて苦しんでいた会社が、世界一になった。

2 「アッパーにソフトレザーを使った軽量シューズ」

軽いソフトレザーを使うアイデアが持ち込まれた。これも断った。スポーツシューズの機能と堅牢性にこだわるドイツ人マイスターは、すぐ壊れるような素材を採用しなかった。そして、このアイデアを採用したのは、米国だった。これによって、エアロビクスで時流にのったこの新しいブランドが米国で2番に成長した。

3 「我々の会社はスポーツカーではなく、戦車をつくってきた」

「エア」や「白い軽量ソフトレザーシューズ」の会社が米国で1番2番になったが、我々のブランドが世界一の頃、この二つの会社はまだ生まれていなかった。

新しい技術は最初に、ドイツに持ち込まれる。もしこのふたつを採用していたら、米国の2大ブランドがドイツマーケットに上陸するのを遅らせることができたかもしれない。

このように、ドイツ人はビジネスチャンスをいつも逃してきたため、米国でのドイツブランドのシェア低下がとまらない。

4 「CEOは物作りの素人だ」

今のCEOはプロダクトを知らない。社長室に製品サンプルがない。ファミリーにとりいって創業一族に株を売却させようとし、一方では投資家を集めてその株を買い取ろうとしている。マネーゲームだ。

◆ロベルト

★派閥抗争にまきこまれた。

他意はなく、ビアホールの酒の上での話を、日本の代表に報告した。代表は、この話をドイツのCEOにもらした。後日、グループ会社から、ビアホールで一緒に飲んだこの米国人がいなくなった。

ドイツとアメリカの戦争に、日本がまきこまれる。

イタリアの仲間が、またやろうという。ROBERTO(ロベルト)だといった。ローマのRO、ベルリンのBER、東京のTOだ。

現地採用ではなく、ドイツ本社採用だから、仕方がないか。

日本でもドイツでも、振返れば誰もいない。

◆あとがき

今週、神奈川県にある大手PCメーカー研究所を見学する機会がありました。そこで1992年1号機より開発にたずさわっている技術者が、この研究所で開発し世界中で販売されている黒いノートパソコンの魅力を語ってくれました。

ムラサキや白、そして薄いパソコンなどと違い、このノートPCは流行を追わず、PCでゲームをする人や初心者ではなく、本当にPCを使いこなしてくれるユーザを対象に製品を開発しているそうです。米国の消費者は軽量や薄型は、すぐ壊れるから好まないそうです。ある程度の重さと大きさと頑丈さをもち、信頼性のある技術と部品を使って製品をつくるそうです。

ですから、新技術や部品の導入には慎重で、本文で紹介したドイツのマイスターに通じるところがあります。日本ではムラサキのPCが人気で、黒いPCは17%のシェアですが、米国NASAには信頼性が評価され、宇宙では100%のシェアだそうです。

そして、この黒いノートパソコンの会社の経営が、米国に負けたドイツのマイスターと大きく違うのは、事業戦略です。採算性を重視しています。これだけすばらしい製品でも、儲からなくなったら撤退するということです。原価割れの商売はしないといいます。

ブランドとか、ロゴマークにこだわりをもって親子3代にわたってブランドを育ててきたマイスターの社会に採算性という異物が混入すると、クリエイティブな環境が悪化する心配もありそうです。

18号 12月22日

■目次
・望郷
・和食レストラン
・キャリアアップ
・リフレッシュ:「ストレス対策」
☆Merry Christmas☆

◆望郷

1988年5月

初めてのヨーロッパでホテル暮らし。毎日カレンダーにX印をつけている。やっと1日が終わった、あと何日で日本に戻れるのかと思い始めている。日本には家族がいる、中学生の息子たちは、父が単身ドイツに行っていることをどう思っているのだろう。

そういえば、今回の転職、海外での生活について説明していなかった。もちろん意見も聞かなかった。相談はしない。自分で決めて自分で実行する。

だから、泣き言はいわない。

ひとりで、頭の中で、ぶつぶつ言っているのだろう。ここでは、日本語を話す人はいない。漢字は見ない。ローマ字だけの社会だ。文庫本を持ってきたが、読む気がしない。1日中、ドイツ語と英語の中にいると、それ以外の言葉はわずらわしくなる。頭を切り替える必要もない、話し相手になる日本人がいないのだから。

◆和食レストラン

たまに、町にでて和食レストランや鉄板焼きレストランに行くと意外なことを発見する。

寿司とか天麩羅のメニューの下にキムチがのっている和食堂がある。従業員の顔は日本人と区別がつかないが、日本語を理解しない。日本人ではないという。日本というブランドイメージを利用して商売をしている。

「東京」という名前の、うどん屋があった。違う業界の日本人ビジネスマンが宴会をやっていた。店員もお客も、東京の人ではなかった。箱根の先の言葉が、氾濫していた。なんだ、ここも東京ではない。東京ブランドを使って、国際的に活躍しているナニワの商人の世界だった。

◆キャリアアップ

本社で、ゴルフのプロダクトマネージャーから説明を受けた。入社前にゴルフスクールに通い、データをかき集めてドイツに来た。どこまでハッタリでしのげるか。

ランガーというプレーヤーが話題になった。スポンサー契約をしている。ところが、スポンサー契約とかエンドースメントとか、未経験の内容だ。第一、ランガーについても詳しくない。

そしてもっと驚いたのは、説明しているマネージャーが来週転職するという。今までいた会社では異動や退職者はいたが、転職する人間は少なかった。仮にいたとしても、そういう人間に新人教育は任せなかった。

彼は、現ポジションでは自分の経験と能力を十分に活用できないから転職してステップアップをすると教えてくれた。1年働いて昇給や昇進が認められないのなら、別の会社で今より良い待遇を得ることを選ぶという。ヤドカリみたいなもので、体が大きくなったら、大きい殻に移るのが自然という。

自分が仕事で成果を出せないのは、上司が原因だと思ったら、上司の上司に直訴する。要求が認められなかったら、転職してキャリアアップをはかる。

農耕民族が、狩猟民族の戦場に紛れ込んでしまった。流れ弾に当たって怪我をするかもしれない。

◆あとがき

夏の終わりに始まったこのメルマガは、おかげさまで、どうやら年を越して続きそうです。少し前からは中野坂上の古賀院長から隔週でヘルスケアに関する投稿もいただけるようになりました。お礼申しあげます。

また、年が変わると、心機一転、新たな挑戦にむけて旅立つ方々が読者の中にもいらっしゃることでしょう。私の周りにも、何人かの先輩が私物を整理し、パソコンの掃除をしています。きっとカルガモファミリーのように、次々と飛びたっていかれることでしょう。

電光掲示板に流れる文字は「さよなら、種嶋さん。」でしょう。

そして、Merry Christmas。

19号 12月27日

年末につき、発行日を繰りあげました。

■目次

・だれにレポートするのか
・ダイレクトコンタクト
・リフレッシュ:「飲み過ぎ・二日酔い・・・」

◆だれにレポートするのか

1988年8月
秘書を採用するということで、面接をした。
履歴書には英語が堪能と書いてある。米国で現地採用されてVPの秘書をやっていたというのが3人来た。そこで自分が一番困っていることをどの程度できるかチェック。
米国人の自筆メモを読むテストをした。

ところが、3人ともほとんど読めなかった。本当に、米国人の秘書をやっていたのだろうかと疑問に思った。

次に、台湾の工場に電話をさせ、マネージャーを電話口に呼び出すテストをした。
国際電話をかけ、電話で話が通じればいいかと思って、常識のありそうな人を採用した。外資には、英語ができるだけで、能力があると勘違いする人や常識のない人が多いらしいから。

採用したいといったら、「だれにレポートするのか」と質問された。これが、外資かと感じた。レポートする相手がボスで、部下はボスの指示で動く。先輩、後輩や職場の仲間とかのしがらみは、あまりないらしい。

遅刻しても、ボスが黙認すればOK。職場の先輩から注意されることはない。給料は契約で決まっているので、ボスの機嫌を損ねない限り、勤怠は関係ない。ボスが秘書の能力に不満を感じれば、契約更新をしないだけだ。

◆ダイレクトコンタクト

1988年9月
ミュンヘンの会場で、日本のディストリビュータで働いている米国人の役員秘書が、ドイツ本社の会長に30分も直訴した。

ディストリビュータの秘書は、日本事務所をクローズしてダイレクトコンタクトをすればもっと売り上げを増加させることができるといった。
同時にこのディストリビュータの社長は、ミュンヘンで高価なプレゼントを、本社幹部をはじめミドルマネージメントや担当窓口にまで渡していた。これを知った会長は
「DANGEROUS、MISTAKE」といった。

外資の秘書の直訴は、その場で成敗するくらいのルールがほしい。その場にいないと、何をいわれるかわからない。時差ぼけで、油断していると、奇襲攻撃を受けて首をとられてしまいそうだ。

ドイツは、日本のディストリビュータのパフォーマンスに満足していないので、100%子会社を日本に設立しようとしている。一方、日本のディストリビュータは既得権を守りたい。

「会長は誤った経営判断をしている」「若い、1~2年しかもたないだろう」と、ドイツ本社の幹部にディストリビュータがいう。次期会長を狙うグループはこれを利用する。日本の商権をめぐって、ドイツ国内でも覇権と生存をかけた争いが目に見える形で展開している。

◆あとがき

もういくつ寝るとお正月。

新しい年を気持ちよく迎えるために、もうひと踏ん張りして、身のまわりのゴミを捨てましょう。1個の腐ったリンゴが、仲間を道づれにしているかもしれません。その場合は是正処置をとり、そして次に腐りかけているリンゴを予防処置として処分しておきたいものです。

地球の環境汚染は「しがない勤め人」にはどうすることもできませんが、身近な環境汚染源には対策をとりましょう。放置すると、ますます住みにくくなってしまいます。ブラックボックスのような職場の生ゴミは異臭を放っています。

職場のカルガモは、逃げ出しはじめました。

この1年間、いろいろな方々にお世話になりました。
来年もあなたにとって素晴らしい1年になりますように。では、良いお年を!

20号 1月5日発行

■目次

・ダイレクトレポート
・稽古不足で、幕はまたない
・リフレッシュ:

◆ダイレクトレポート

1988年8月

気になることがある。女性が仲間の机を拭いたり、お茶をいれたりしない。掃除は業者にまかせているので、そんなものかとも思うが、どうも割り切れない。それに出勤時刻も自分のボスに合わせて、ボスが出張中のときは、定時に出てこない。帰宅するときも、ボス以外には挨拶もしないで黙ってオフィスをでていく。こちらは、外資での経験がないので、女子社員にも軽くみられているのだろうか。

同僚のドイツ人のために、ドイツの彼の実家に土産物を届けてあげた。もちろん、ついでがあったので、好意でやったことだ。国際電話で日本にいるドイツ人に、家族に渡したと伝えた。そこで最初の勘違いに気づかされた。

彼と電話で話しているときに、ささいなことだが、代わりにやってもらえないかとお願いした。そこで返ってきた言葉を聞いて、緩んでいた緊張感がもどった。彼は、私に仕事を指示される立場にないといって断ってきた。こちらは、彼の個人的な土産物を紛失してはいけないと思って、機内に持ち込んで運んでやったが、これは好意でやったこと。確かに彼は私の部下ではないし、自分も彼の部下ではない。どうやら仕事を代行することが問題であったようだ。(欧米人には一宿一飯の人情はないのかとも思ったが)

秘書が夏期休暇中のあるボスのこと。その人から、なかなか返事がこないので電話で問い合わせをしたら、返事をタイプする秘書が休暇中なのでとまっているという。別の秘書に頼んだら、休暇中の秘書の仕事を奪うことになるという言い訳をしてきた。

ダイレクトレポートというのは、都合がいい。ボス以外からの仕事は断れるから。日本ではチームワークとか、引継ぎとかいって、個人の休みで仕事が途切れることがないように代行することが当たり前になっている。外資で取締役、本部長の肩書きをもらったが、まだまだ修行が足りない。

◆稽古不足を、幕は待たない

1988年9月9日

21時過ぎ、日本のディストリビュータの古木氏から電話があり、唐突に給料の話題になった。

古木氏:「ジャパンの社員はいくら貰っているのか。100万か50万か、それとも30万か。代表なら100万はもらっているだろう。」「給料体系は売り上げに連動しているのか」

答え:「知らない」

代表にこの電話の件を報告した。彼はディストリビュータの経理部長に「我々の給料を調べているのか」と強く抗議した。

経理部長:「古木は冗談で言った。あなたの部下は冗談の通じない男だ」
役員会でのディストリビュータの社長:「今回の件は、古木が、夜遅くまで仕事をしているジャパンの社員に労いの言葉をかけたところから始まったのだ。まったく冗談の通じない男だ」

些細なことを材料にして、日本の代表は、ディストリビュータにゆさぶりをかけようとした。話が大きくなった。そこでディストリビュータは後には引けないので反撃に出た。結局、「冗談の通じない男」ということでこの小競り合いは手打ちになった。

またやられた。ガードが甘い。稽古不足を、幕は待たない、外資の夢芝居。

◆あとがき

1年ほど前、東京の麹町にある某ヘッドハンティング会社を訪問した際のこと。

先方が会いたいというので、顔をだしたら、一方的に外資は考えているほど甘くないといわれ、門前払いのような扱いを受けたことがありました。本編と重なるところがありますのでここで紹介します。

この斡旋業者の社長は、ドイツの子会社でいかに現地人である日本人が冷遇されているかを、ご自身の体験をもとに本にしていました。その新書版の著作物を見せながら、ドイツ人に受けた不当な扱いを説明してくれました。

自分もドイツの会社に5年いたといっても、彼の既定の筋書きは変えられることはなかったようです。この人は現地採用で、ドイツ人のボスの下で働いたようで、上級管理職ではなかったようです。確かに本社のドイツ人の中には思い上がった平家や藤原官僚のような人たちがいますが、一方マイスターや育ちの良い技術者、洗練されたビジネスマンもいます。

話の最中、電話がなっていても、そばにいる事務員は私用電話をやめず、こちらにお茶も出そうとしないのです。どうやら、外資での冷遇だけではなく、日本人のマネージメントも得意ではないようでした。

外資での一面だけしか経験できなかったこのリクルーターには、それ相応の人材しか外資には紹介できないのではないかと思いました。紹介してくれる案件より、ヘッドハンター自身の信頼性が優先されると感じました。信頼できそうなハンターによる案件は、安心で期待できそうな気がします。ご参考まで。

21号 1月12日

■目次

・プレゼント作戦
・SOLID OR POLITICAL
・リフレッシュコーナー:「肩コリのストレッチ-その1」

◆プレゼント作戦

1988年9月13日

16:00、ディストリビュータのSP課長に電話をした。

ミュンヘンのメッセゲレンデで本社のプロモーション担当者に日本からのお土産を渡しているところを、社長が見てコメントした。そのコメント内容は「ミステイク、危険だ」ということだった。このことを日本支社の代表は、ディストリビュータのSP課長だけに伝えることにした。

「代表から言われたのだが、他に漏れないようにしてほしいと前置きして、ドイツ本社の社長のコメントをディストリビュータのSP課長に伝えなさい。そうすれば、全社に伝わる。」とのことだった。

指示通りに電話したところ、思惑通りディストリビュータの社内に、話が広まった。

代表がこの話を流したことも同時に伝わったため、叱られた。「なぜ、自分だけの責任において、ドイツ本社へのプレゼント作戦の批判をリークしなかったのだ。」と強く責められた。

代表が仕掛けたのに、その結果がうまくいかなかったときは、代表は責めてくる。このプレゼント作戦は、ドイツ本社の役員や幹部にプレゼントをして歓心を買うことによって日本のディストリビュータが、契約更新の延命をねらったものである。もともと、グレーな動きに、また、素人が火傷を負ってしまった。

◆SOLID OR POLITICAL

1988年10月25日
ドイツ本社の38才のCEOは、SOLID(信頼できる)か、POLITICAL(政治的)かで人物を評価するという。

プレゼント作戦はPOLITICALだ。CEO以外の幹部社員の多数を味方につけてCEOを飛ばすことも可能だ。日本支社に敵対する日本のディストリビュータは、CEOを除く多数の幹部に贈り物をしている。一方、代表はCEOの家族に高価なプレゼントをしている。しかも会社に領収書をまわしている。

ディストリビュータのSP課長は、社内の打ち上げパーティで「代表殺せ」と叫んだそうだ。ドイツ本社のCEOは、日本のディストリビュータから日本支社の代表の弱点を聞く。代表からはディストリビュータの悪い点の情報を得ているに違いない。

◆あとがき

1月から新年度となる会社も、4月からの会社も新年を迎えて抱負を語ります。そこで、1月1日付けで入社した幹部社員の話をご紹介します。

生え抜きの古参社員にとっては、新入りの年下幹部が偉そうにしているのが、気にいりません。社内の反発が出てきます。そこで、この新入りの幹部社員がいいました。

「外から新しい血が入れば、拒絶反応は必ずある。しかし、延命処置として輸血を選んだのだ。新しい血を入れなければ、生き残れないとしたら、拒絶反応を乗り越えていかなくてはいけない。」

まだらボケの種嶋さんに、新しい血をいれたら、種嶋シンドロームの被害は減少するでしょうか。いいえ。新鮮な血液をどぶに捨てるのは、よしましょう。

22号1月19日発行

■目次
・アウトバーン
・歌舞音曲を慎む
・リフレッシュコーナー:

◆アウトバーン

1988年10月

ミュンヘンから国境を越えストラスブールまで、アウトバーンを時速270KMで走る。これは速い。車間距離が十分あるから緊張はするが恐怖感はない。

日本で乗っているBMWと同じ型だが、巡航スピードがちがう。日本では瞬間的に200KMを経験するぐらいだった。ポルシェが左側の追越し斜線を通り過ぎて行く。

東名高速とちがい、追越し車線は追越す車のための専用斜線でいつも空いている。トラックは一番右側の斜線を走っている。

途中、BMWが何台か路肩やわき道に転がっているのに気がついた。ドライバーに聞くとよくBMWも故障するという。ドイツの高級車がよく故障するとは意外だった。

会議の合間、ドイツ人の同僚と車の故障が話題になった。車は機械だから故障するのは当たり前だという。故障をひとつひとつ直していけば、車は完成度が高まる。日本でドイツの高級車が故障したらブランドイメージに影響すると思うが、マイスターの国では考え方が違うらしい。

イタリア人がいたので、同じことを聞いてみた。ラテン系の人たちにとって車は、スピード、美しいフォルム、ブレーキを踏めば停車し、左右に曲がればいいという。雨の日に、車内に水がはいってくるというのは、本来の車の性能や魅力には無関係だという。冬の朝、エンジンがかからないのが不満なら、ドイツ車か日本車を選べばいいという。

◆歌舞音曲を慎む

1989年1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。

1月8日 平成元年となる。

この2日間、国民は歌舞音曲を慎み、TVのCMはすべて中止。民放TVも2日間特別番組を放送。競馬、宝塚、コンサートなど中止。レンタルビデオがはやった。

◆あとがき

1月17日5時46分、あの阪神大震災から7年がたちました。本編で展開している話題はまさに阪神大震災で被害にあった地域を舞台にしていました。日本にいるときは夜明け前に目が覚めて、何かに追われるように6時前には芦屋のマンションから車で大阪の本町へ出かけていました。外資での勤務があと1年続いていたら、間違いなく被害にあっていました。地震で横倒しになった高速道路を走っていましたから。

1992年3月で外資での仕事を離れ、東京にもどっていたので難をのがれました。

ただし、家族はその後も神戸に残っていたので、被害にあいました。中高生だった子供たちは、先生や同級生を亡くすという悲しい経験をしています。電気ガス水道がとまり、家具が壊れガラスはすべて割れるという不自由な生活を、幸か不幸か自分だけ免れたのです。

あらためて、犠牲になった方々のご冥福をお祈り申しあげます。

23号1月26日発行

■目次

・うわさ
・素行調査
・リフレッシュコーナー:

◆うわさ

1989年1月28日

土曜の朝、体協の先生から電話があった。

ドイツのスポーツ誌に、オーナーファミリーが1200億で日本の商権を日本の企業に売却するという記事が掲載された。日本の調査(Due Diligence Report)は済んでいるという。

もし、日本企業に売却されたら、ドイツ本社から出向している我々は失業する。日本の代表は、先が見えたのか私腹を肥やそうと何かを始めた。

◆素行調査

1989年2月18日

代表の前の会社での悪行を知っているという人が情報をくれた。

前の会社で、代表は事務所に盗聴器をつけて、社員の話をFMで聴いていたという。

代表は、他人の鞄の中からでも、平気で書類を盗む人間だから気をつけるようにといわれた。

会社の電話は盗聴されているかもしれない。机には鍵をかけ、代表に都合の悪い書類は会社に残さないようにしよう。

2月20日

代表から、代表の秘書がディストリビュータに情報をもらしている疑いがあるから、探偵を使って調査するようにといわれた。もし秘書が本社の機密をディストリビュータに流している確かな証拠を握れば、売却の話に影響を及ぼすことになる。

代表と距離をおいているように見える税理士に相談したところ、探偵社を使うのは危険だという。内情を知った探偵社が別の動きをするリスクがあるそうだ。そこで、県外の探偵社をイエローページでしらべ、調査を依頼した。素行調査というのは、指定した人物を指定した期間中、24時間2人1組でべったり張り付いて写真をとり、細かく足取りを記録する。わずかな日数でも100万円を超える費用となる。

秘書の素行調査の結果、別の件が発覚した。最近フランスから出向してきたシューズ部門の責任者が、その日本人秘書と浮気をしていた。探偵社は本社のスタッフの不始末をレポートして、肝心の代表秘書の素行調査については、疑わしい行動はなかったという報告書を提出してきた。

もしかしたら、税理士と探偵社とディストリビュータが取引をしたのかもしれない。

◆あとがき

皆さまもラッキーナンバーをお持ちのことと思います。私のラッキーナンバーは2です。

ラッキーナンバーを意識したのは、20台前半の頃でした。当時ごひいきにしていただいたお客さまが、六本木でご自分の名前に数字を足して店の名前にしていました。

このお店は現在でも生き残っています。

この方は最低4回挙式されており、そのうち2回目と3回目は参列させていただきました。2回目のときは、新郎新婦の年の合計が45歳でした。新郎は年をとるのです
が、新婦は毎回若くなっていまして、友人のテーブルでは年の話題で盛りあがっていました。

話がずれましたが、私のラッキーナンバーは2です。高校時代に、ある大会で2番目に出場して優勝。その後、2のつく場面ではラッキーなことが多かったような気がしています。

そして今年は2002年。私は2月にかけました。外資への転職パート2がスタートしました。

24号 2月2日発行

■目次

・芦屋へ友人を招く
・海外出張

◆芦屋へ友人を招く

1989年2月28日
14:00~17:00

大学時代の卓球部のクラスメートを芦屋に招いた。前回神戸であったときは、ポートアイランドの教職員用の施設で試合をした。あの時は、ユニフォームとシューズを持参して本格的にゲームを楽しんだ。1ゲームも落とすことなく圧勝したことを覚えている。今回は、優雅に芦屋のレストランで旧交を温めた。

須磨に一戸建てを買い、2男1女で、夜学の教師をしていた。最近はスポーツをやっていないとのこと。こちらはスポーツを商売としている。

東京の人間と話しをするときは、なるべく東京の言葉を使わないと話のテンポが合わないそうだ。

日教組は共産党だが、体制をつくり生徒の自由を損なっているという。バイク、タバコ、ガムなどについて、理由を説明せず行為のみを問題にして禁止にしている。そして破った者には、処分を与える。
権力を持つと、力を持たないものを支配する。もともと、支配されることを拒否して新しい世界、社会を創りだそうとした共産党革命は、こんなところでも、ほころび始めている。革命の次には新たな革命は不要だ。反動という。革命で権力を握った被支配階級は、新たに支配階級を形成する。

ビジネスの世界では、支配階級は官僚制とちがい、権力を維持するために利益を出し続けなくてはいけない。成果を出せない幹部社員を温存していては会社が存続しない。わかりやすい資本の論理だ。

◆海外出張

1989年3月
欧米への出張が増えてきた。直行便でも14時間近くかかる。人品卑しい代表だが、いくつかの金言をもらっている。

そのひとつが、一期一会だ。会食をするときに、この人とは次にまた会食する機会はないと思って、その食事の機会を大切にするようにといわれた。

そこで、私は海外出張する際は、必ず身辺整理をし、デスクの私物も持ち帰りかたづけたうえで、周りの人と食事をすることにした。昼間は秘書や取引先と会食し、夜は家族や友人と食事を楽しむことで、一期一会を実行した。

◆あとがき

本編でご紹介している外資をやめて、10年近くになりますが、再び外資へ転職をすることにいたしました。このメルマガを準備している間に大分当時の感覚がもどってきました。当時と現在とでは環境が違うでしょうが、今では日本企業が当時の外資に似てきましたので、あまり抵抗を感じなくなりました。

そこで、日本企業卒業旅行として、先週は家族とハワイ旅行を楽しみました。

10年前、海外でのセールスミーティングに出席するときは、日本人はたいてい単身でしたが、欧米人は女性(奥様またはガールフレンド)を同伴していました。もちろん例外もあります、ワニのマークのポロシャツを販売されていた会社の社長さんは女性(最近、不倫を清算して再婚)を同伴していました。

今回、5年ぶりの海外ということで、つい昔のくせがでました。まず出国の1週間前から家の中をかたづけ、網戸や窓ガラスをきれいにし、友人や家族と食事の機会を多くもちました。

出発の当日、成田に向かう電車のなかで、英語の辞書を持ってくるのを忘れたことに気がつきました。空港で買おうとしたら、家内に笑われました。そのときは、もし現地でわからない単語に出くわしたらどうしようと不安になっていました。今回はビジネスではないといわれました。たったひとつの単語の意味がわからなくて、契約に支障がでるなどというシーンはないのです。辞書を買うのをやめました。

次は、ワイキキのレストランでの笑い話です。出発前に友人と六本木で食事をしました。同じ店がワイキキにあったので、無難な選択と思ってその店に行きました。いざ、テーブルに着きメニューを見ました。あっ、メニューに日本語がありません。

空港でのイミグレーション、ホテルのチェックインなど、すべて日本人のような顔をした人たちが流暢な日本語で対応してくれましたので、それまでここが海外であることを意識していませんでした。レストランにも歩いていったので、現地の人たちと話す機会はありませんでした。

メニューを開けたとたん、一瞬パニックになりました。読みなれた日本語がありません、事前に心の準備がなかったので、「メニューが読めない」と勘違いしました。独仏伊のレストランで読めないメニューに困った記憶とダブりました。家族にはメニューを選んでいるふりをしているうちに、このメニューが英語であることが頭の中にはいってきました。

なんだ、英語か。5年も海外で英語をつかって商売をしてきたのですから、英語はわかるのです。

自分は英語が話せるということを忘れていました。使わないと忘れてしまいますが、使い始めると、また思い出します。家族旅行では緊張感がなかったようです。ただ、家族がトラブルに巻き込まれないようにと、それだけを考えていました。

ふたたび、今月から外資に現役復帰します。今度は異業種ではなく、同業です。

☆☆☆野に放たれた虎になるつもりです☆☆☆

25号 2月9日発行

■目次

・評価
・日本法人化の提案書

◆評価

1989年11月24日

ジャパンのなかで、代表の信頼性がゼロに近づいている。トリガーになったのは、田原だ。本社の会長が来日したとき、この間の田原の姑息な動きを説明したい。

田原の評価

1 会社に対する忠誠心がない。
2 知識は薄っぺらだが、それをハッタリでカバーしている。
3 仕事に対する取り組み方は、原宿にいた立命館の中田によく似ている。
4 毎朝、9時3分に席につく。勤怠は中田の方がましだった。

代表の評価
1 関西の人は話を面白くさせるために平気で尾ひれをつける人が多いようだ。
2 君子は豹変するか。代表の言うことが嘘であっても、それはその時点ではもっと
も有効な仮想現実であったにちがいない。
3 部下は上司に嘘をついたら仕事は先にすすまない。しかし、上司が真実を伝えな
いことによって仕事が前に進んでいくということは、あるかもしれない。

◆日本法人化の提案書

1989年11月26日

代表から電話。本社の会長が12月5~7日に来日するらしい。田原は8月に代表に退職を申し入れたが、10月12日のシカゴのミーティングまで動かなかった。

田原が動いたのは、10月12日付けのレポートに加えられた代表のコメントを知ったときだ。「代わりはいくらでもいる」という箇所を会長が田原に見せた。会長にしかけられて、田原は踊ったのではないかと代表は予想した。

田原を排除し、100万円かけて、代表と一緒に作成した日本法人化の提案書をシカゴでコントローラーに渡した。日中、コントローラーと内容の検討をし、詳細は日本でレビューすることになった。当日の深夜、田原はB4用紙2枚にタイプした田原私案をホテルのバーで会長に渡した。

長い1日だった。田原を牽制しながら、コントローラーと会長補佐を確保し、会場を設定し、売上300億円のプロジェクトを説明する。一方で田原が会長にどう接触するか動きをモニターしていた。結局、深夜のバーでの一瞬のできごとだった。田原は紙切れを会長に渡し一言二言話をして部屋にもどった。

「心配しなくてもいい。私は嘘つきではない。」と詐欺師の代表がいう。会長が確かめたかったのは、代表の信頼性だったのではないか。田原が渡した紙切れに書かれていたのは、日本法人化の私案ではなく、代表を告発する文書であったのではないかとも思われた。

◆あとがき

どこのオフィスにもある行き先表示板について。

オフィスには社員の所在を記入するホワイトバードが必ずあります。それを見ると、事務所にいる社員の数、序列、取引先などが大体わかってしまいます。

最近、新宿御苑で面白い事務所を見つけました。この会社の行き先表示板には、社員の名前があらかじめ記入されていません。社員が全員在席の場合は、ホワイトボードには何も記入されていません。したがって外部の人が事務所にはいってきても、個人情報は何もありません。

外出するときは、掲示板の空いている枠に名前と行き先、帰社時刻を記入します。きわめて合理的でフラットな雰囲気が感じられました。

26号 2月16日発行

■目次

・バブル時代の待遇
・商圏

◆バブル時代の待遇

1989年12月1日

田原は11月29日、30日と2日続けて定時に出社してきた。しかし、本日は9時8分に来た。たった2日しか定時出社は続かなかった。毎朝、9時過ぎに出社し、席につくや咳払いをして出社をアピールしてきた。

こちらは7時にはオフィスワークを開始。田原がのこのこ出てくる時刻には、第1ラウンドが終わっている。

12月8日

田原は有休が24日残っているからといって1ヶ月分の給料を要求してきた。会社が貸与している宝塚のマンションと乗用車をそのまま使いたいとのこと。転職先の化粧品会社が家賃とリース料を負担するようだ。

マンションは人道的配慮から賃貸契約を解消し、退去しないですむよう契約を変更した。乗用車はリース会社が契約先の変更を嫌った。

会社は家賃が50万近いマンションと、毎月のリース料が20万の乗用車を貸与していた。さらにスポーツクラブの入会金と月会費を本人と配偶者の2人分を負担している。乗用車は2年で走行距離が5千KM。家族と買い物に行くときに使うぐらいで、商用には使っていなかった。本社から幹部がくると空港まで迎えにいくのが常であったが、田原はタクシーを使っていた。

ドイツとアメリカを舞台にして代表のグレーな部分を告発し、下剋上を企てた田原が代表の寝技に負けて、退場した。

タクシーなどの領収書に0を書き加えて私腹を肥やしてきた代表であるが、本社は彼がもたらす利益でスキャンダルを相殺したようだ。12月は年俸更改の月で、代表が要求した5~10%のベースアップを本社は受け入れた。年俸が10%アップした。

田原の使っていた乗用車のリースは2年残っていた。初年度になかった乗用車貸与が自分の待遇に追加された。個人所有と会社貸与で乗用車が2台になった。

◆商圏

1989年12月12日

パナソニックの携帯用ワープロを買った。上代188千円、東京で144、大阪で155だった。「船場400年の商人の町」と本町の電飾看板にあったが、東京では大量に物がさばけるので、安くなると浪花の商人がいっていた。商人の町だが、近畿地方全体の商圏は東京の山手線内側程度だ。

90年代の世界のトレンドは東京が発信基地になるという。

ビジネスバッグのモデル名が、ニューヨーク、ワシントンとつけられた、次はトキオだ。

27号 2月23日発行
■目次

・覇権争い
・仕事始め
・M&A

◆覇権争い

1989年12月26日

親子2代続けて、同じ会社で働いてきたドイツの靴職人が出向先の日本で退職した。

12月30日

田原は結局、代表降ろしをはかった。フランス人とつるんで、フランスとアメリカのテキスタイルのプロジェクトに参加するという。ディストリビュータの大山によると、田原はゴマすりだけで生き延びてきたそうだ。ディストリビュータの役には立っていないとのことだ。

ドイツの靴職人がやめたのも田原のにおいがする。バブル華やかな日本の市場は、蜜のかおりがするようだ。若いドイツ人が日本支社をねらっている。日本支社の幹部が日本の代表の失脚に手を貸している。もともと、マルクで給料ももらうこと自体、国を売っているのかもしれないが、今度はドイツ、フランスと組んで日本支社を売り、覇権争いに加わっている輩がいる。

代表は、今回の件は3~6ヶ月後には結果がでるといった。会長の柔道の先生は1月9日からHQに行って何かを話すようだ。

◆仕事始め

1990年1月5日

代表は、出社してきた社員全員にお年玉を渡した。私ももらった。小さな袋に1万円札が5枚入っていた。
表向きはポケットマネーだが、原資は領収書改ざんで得ている。

◆M&A

1990年2月20日

成田からパリ経由ミュンヘン。2年ぶりだ。

先週、本社の会長が銀座の豪華ホテルに宿泊した。青山にある商社の重役に、自社株を買わないかといったそうだ。ファミリーの持株95%を日本資本にすることで、トップの座を堅固にするという野心が見える。

次に百貨店系列の商社に日本市場でのシューズ販売権の譲渡をもちかけた。日本一の広告代理店、関西系銀行、池袋の百貨店とブランド売却の商談を重ねた。

会長が日本にいるときは、日本が臨時のHQになる。こちらは、特命ドライバーで、銀座のママから560ベンツを借り、20分しか電池がもたない携帯電話とバッテリーをかついで、テレビ番組の「コンバット」の軍曹にくっついている通信兵のように修羅場を動き回っている。

青山の商社が買えば、ペンギンのマークと同じケースになる。百貨店が買えば、辞めた会社の同族会社の子会社になる。

◆あとがき

今週は、1998年~2001年の厄払いをしました。

1998年から2001年の期間中、足を引っ張られたイベント関連の品を廃棄しました。

1 周年記念卓上時計。
2 年号の入ったワイングラス。

これは、アフタヌーンティというお店で売っているグラスです。毎年、年号を入れたグラスが 販売されていて、1995年から毎年2個ずつ買っていました。

その年の思い出にひたりながら、ワインを楽しむという仕掛けなのですが、98、99、00と格下の幹部職層のおかげで、運があまりよくなかったので、関連の品やグラスをたたき割り、燃えないごみにだしました。

グラスには罪がないのですが、くぎを打ちこむ人形の代用としての思いをこめて、たたき割りました。これは、今年の幸運を彼らの暗雲で曇らせたくないという、縁起かつぎです。

28号 3月2日発行
■目次

・世界一周
・リフレッシュコーナー

◆世界一周

1990年2月

ミュンヘン、メッセゲレンデ。

本社や各国に知り合いが増え、どこにいっても独りではなくなった。自分のテリトリーがある出展ブースが5箇所になった。広い展示会場の中を毎日歩き回り、各ブースの商談コーナーで情報交換をする。コミュニケーションが少し楽になった。4つの展示ブースで聞いた話題をとりまぜて残りの1ブースで話しをすればいいわけだ。

ミュンヘンからニューヨークへ移動。

昼間はニュージャージーの会社へ行って製品戦略と価格の交渉をする。初めてリムジンにのった。ニューヨークに戻りマリオット・マーキーに泊まった。ブロードウエーだ。目の前の三角コーナーに当日のチケット安売り屋があった。気温は多分氷点下だろう。

ニューヨークからフロリダ・タンパそしてポートランド。

フロリダの空港を出たら、周りはTシャツに短パン。こちらは、グレーの冬服。

2日滞在してポートランド。また冬になった。

サンフランシスコから成田にもどった。

話題にはこまらなくなってきた。いろいろなビジネスマンと会い、話を聞きその話がつぎの話へ展開していく。台湾、香港、ロンドン、パリ、ミュンヘン、ニューヨークと3週間近く旅をしている。いつも単独行動。土日は孤独だ。ホテルで夜中に目が覚めたり、電話がかかってきたりしたとき、自分はどこにいるのかをまず考える。安全第一を考え、夜の単独行動はしない、ひとりで動くときはタクシーをつかい、事故や盗難にあわないよう用心している。何か起これば、スケジュールが2~3日空白になってしまう。

航空会社に乗る便の確認をしたり、初めての相手とアポイントをとったり、すべてひとりでやる。書類はたまり、結論をだすことも増えてくる。頭の中でしきりにしゃべっている。時々、ため息や何かしらの言葉が口からでる。家族のことも日本のことも優先順位が低くなっている、日本の新聞も読まないし、文庫本も持参していないので日本語の文字を見ていない。

成田へ向かうJALの機内で、映画を見たが吹替版が奇妙に感じた。登場人物の声に違和感があった。この人がこんな声をだすはずがないと思った。原語版で見た。成田に着いたら、英語より日本語のほうがわかりやすいことがわかった。3週間、相手のいっていることが何かしっくりこなかったのは、英語で話していたからだということに気がついた。

◆あとがき

S社最高経営会議決定事項「朝は元気よくあいさつしましょう」

箱崎I社の戦略的パートナーから外れた西新宿の元SI認定企業は、毎朝7時過ぎに会社に出て、出社してくる社員(定時過ぎにのこのこ出社してくるのですが)に大きな声で「おはよう」と声をかけるスピッツを飼っています。赤坂のORCL社にも大きな犬がオフィスにいますが、このスピッツの場合は、Kの犬という役割上、声をかけられた人たちは、朝から迷惑します。モチベーションを朝一番で下げられてしまいます。

KPY5さんへの言い訳になりますが、外資であるS社の場合は、複数の民族間で友好的な関係をつくり、営業力強化をしていこうというねらいがあります。オフィスの入り口で、朝できるかぎり、声を掛け合って、バーチャルではないリアルなコミュニケーションをはかっていこうというものです。スピッツとは、心がけに違いがあります。

そういえば、種嶋さんのケースは、定時後出社の場合、まわりからの業務上のあいさつを不機嫌に無視して黙って席につきます。そして、ご自分から声を発しないかぎり、だれもお席に近寄りませんでした。

29号 3月9日発行

■目次

・嘘つき
・写真

◆嘘つき

1990年3月
日本支社は、覇権争いが終了し代表おろしを狙った人たちがいなくなった。しかしながら、代表の虚言癖には、違和感が残る。

彼はよく嘘をつく。嘘をつくのは悪いことだと思っていない。ろくに考えもしないで嘘をつくのだろうか、いい加減で矛盾したことをいっている。最初は吉本興業ののりで、向こうの人はみんな「さんま」と同じで、四六時中しゃべりまくり、受けをねらっているのかと思った。

嘘が日常化しているので、自分が嘘をついているかどうかがわからなくなっているのだろう。嘘をごまかすためにまた嘘をつく。田原が、叛旗をひるがえしたときの第一声は「代表なんかゆうとったやろ。嘘ばっかしや」であった。こいつも、計算した嘘をつくので、信用できなかった。自分は「嘘ばっかし」側につき、「はったり屋」田原の後方支援部隊に揺さぶりをかけた。

しかし、信頼性に欠ける代表には、いつも不安がつきまとう。周りから雑音が聞こえてくる。この雑音は事実を伝えている。代表は嘘ばっかりいうので、代表の言っていることと反対のことが本当のことなのだ。事実が、自信をもってつかれる嘘によって、つい影が薄くなる。

米国支社長が「日本の代表はDISHONEST(誠意がない)」といった。この男も、代表の前では、嘘と知っていながら騙されたふりをする。そして、代表が席をたったとき、「自分はそんなに馬鹿ではない、利用できるうちは利用する」と耳打ちしてくる。

誠実と勤勉がビジネスマンのセールスポイントではないことを、彼らは教えてくれた。誠実に仕事をしても成果をあげなければ評価されない。父は国家公務員であったから、誠実に勤勉に役所で仕事をすることが、家族を幸せにすることだと考えている。

外資では、私生活や勤務態度ではなく、会社に利益をもたらす人間が天下をとる。歌手は歌で評価されるべきで、私生活で評価されたくないと、スキャンダルを暴露された売れっ子のオネーチャンがいっていた。

ローカルでアマチュアな会社員が嘘とか本当とかを「ホームルーム」で議論しているうちに、グローバルなビジネスマンはしっかりと金を稼いでいる。

◆写真

1990年5月 香港からニュールンベルグ

秋の製品ラインアップを決定し、発注予定数をまとめる営業会議。各国の営業責任者がローカルトレンドや販売予測を発表している間、日本の代表はカメラを持って会場を歩きまわり出席者を撮影し、前回撮った写真を手渡している。

まわりは、そのような代表の動きを軽く見ているが、前回の自分が会議でアピールしているスナップを渡されると、とたんに表情が変わる。みんな、ヨイショには弱いものだ。代表はそんな隙間をずるがしこくついてくる。

代表は写真を配り終わり注目を集めてから、日本の要求を大きな声で自信を持って発表する。

日本の根回しは、期待された効果を発揮するような気にさせられる。

◆あとがき

IT業界の外資企業での小話を紹介します。会議室にお茶をサービスした社員から昨日聞いた実話です。

日本語が堪能な外国人の幹部に、初対面の日本人がお決まりの質問をしました。「ランガーさん、日本は長いのですか」

彼は、自信を持って答えました。「はい、日本は九州から北海道まで長いです。」

質問をしたお客さんは笑わなかったそうです。そのやり取りから始まった商談の行方が気になります。ビジネスをしていく中で、今後、このような解釈の違いが発生する可能性を考えると、笑えなかったでしょう。

30号 3月16日発行

■目次

・子会社設立
・出張

◆子会社設立

1990年春

ドイツ本社100%の日本法人を設立した。将来的に年商250億の子会社に移行することをねらったもので、まずサブブランドを扱う子会社として、本社のアニュアルレポートに社名が掲載されることになった。

本社がすでに買収したブランドは5個あった。いずれも日本に販売代理店があり、まず日本の代理店と本社の間にたって、本社の出先機関として自己主張しなくてはいけない。ブランドイメージ向上のためのマーケティング費用は代理店が持つことになっている。ブランド使用料が会社の収入となる。売り上げが約束した額にいかなければ、代理店契約の延長を再検討するという切り札をもっている。

子会社といっても、日本法人設立準備室のバブルみたいなもので、役員とスタッフは準備室のメンバーが兼任している。人件費をはじめランニングコストは準備室が負担しているので、この子会社が売り上げると粗利がほとんど利益となってしまう。利益は日本でプールすることになっているので、キャッシュがたまる構造となる。

準備室が子会社を設立したことで、既存のディストリビュータとの冷戦がいよいよ本格的に始まった。

◆出張

1990年5月 

子会社が担当するブランドは5個ある。それぞれが、独、仏、英、伊、米で販売会議を年2回開催する。こちらは、兼務で各ブランドの日本の代理店の営業責任者に同行する。各国で日本におけるそのブランドに関連する市場動向を、日本経済、政治、スポーツなどの話題をまぜて説明しライセンサーとライセンシーの良好な関係維持に努める。それが、さし当たって、子会社の利益の原資となっていく。

各ブランドの日本代理店とのヒアリングで年間のスケジュールを予想すると、こまめに会議に出席すれば、月1回は欧米にいき、前後で台湾、香港、上海の工場に品質チェックにでかけることになりそうだ。

通信手段は、ファクスと電話。パソコンはラップトップとノートブックを使った。ノートブックと書類をいれた重いアタッシュケースをキャビンアテンダントと同じようにカートに乗せて長いターミナルを持ち歩いた。

5月1日は、会議のハザマで、ひとりパリにいた。オペラ座の前で陽気なデモ行進を見物し、チェイルリー公園では、歩道で描いていた絵を買った。全国的にメーデーなので、そんなことしかすることがなかった。会議中は、いろんな仲間と忙しく時間がたっていく。会議が終わると、祭りの後と同じで、孤独であることを思い出す。

日本の代理店の人たちとは、プライベートを共有しない。ペンギンもワニも、新しくできた日本の子会社が目障りで、社員が必要以上に接近することを禁止している。

◆あとがき

12月決算の会社の定時株主総会の季節となりました。ITバブル華やかな頃に少し株を買いました。株主総会の案内が届き、議決権行使書が同封されていました。

日常、稟議を否認とか、認否保留とかする人たちが出してきた議案に対して、否認することにしました。1株株主みたいなもので、多数決の世界で、大勢にまったく影響を与えませんが、「声なき声」は賛成とみなすというから、発声しました。

議案に反対なら株を売却すればいいという理屈もあります。経営者の判断に納得できないなら会社を辞めればいいという論理です。でも資本家としては、株価があがり、配当をしてくれれば文句はありません、しかし、まともな経営判断をしてくれれば株主はもっと得すると思っています。得する経営をしてもらいたい、そして幇間やスピッツのヨイショで損をしたくないのです。

31号 3月23日発行

■目次
・ドイツからフランスへ
・南仏、アクサンプロバンス

◆ドイツからフランスへ

1990年春

ドイツ人の創業ファミリーがフランス人実業家に95%の株を売却した。

現フランス首相の片腕といわれる現職の下院議員で、女性に人気のあるビジネスマンだという。彼は、買収した企業の付加価値を高めて売却する手法を繰り返して、巨額の資産をつくってきた。今回もマネーゲームだとドイツ人がいっている。

発表と同時に、本社のレターヘッドがフランス語になった。ドイツ語交じりの英語のコレポン(通信文書)が仏語交じりに換わった。本社の秘書たちはすぐに新オーナーのご機嫌を取り始めた。新オーナーサイドの経営幹部が送りこまれた。日本では、ドイツ人がいなくなり、代わりにフランス人がやってくる。オーナーの親類というお嬢さんが、日本に遊学するというのでオフィスの中に個室を用意した。

新オーナーが所有するブランドが加わり、グループのあつかうブランドが増えた。幸い、加わってくるブランドはいずれも日本では事業規模が小さかったので、合併吸収されるというより、こちらの守備範囲が拡大することになりそうだ。

今回の買収をしかけたのは、現CEOだった。彼はドイツ人ファミリーの所有する株を5%残して残り全部をフランス人に売却させる絵をかいた。ファミリーは現金を手にした。資本家と経営者を分けて、株主からCEOは経営権を預かった。このCEOと日本側は相性がいい。うまくいきそうだ。

昨年秋、ドイツで開催された営業会議で創業者の孫が短いスピーチをした。何を言っていたかドイツ語だったのでわからなかったが、創業者と2代目を知る人たちにはインパクトがあったようだ。創業者の面影が残る孫が3代目の社長になることなく、ファミリーの後見人が一族の株を売却させてしまった。

◆南仏、アクサンプロバンス

1990年初夏 

南仏、アクサンプロバンスに出張。マルセーユから車で行った。会議はフランス語だった。英語の同時通訳がついた。フランス語は、料理のメニューぐらいしか、いままでつきあいがなかった。

ミュンヘンのホフブロイのビールや、ニュールンベルグソーセージは定番だが、フランスのいいところはどこへ行っても食事がおいしいということだ。ドイツから、フランスへアウトバーンで何回か行ったが、国境を越えると途端に食事が楽しみになる。

例によって、単独で現地入りし、日本を担当する責任者を探して自己紹介から始める。夜になって、日本のディストリビュータと合流する。こちらはライセンサー側、ブランド使用権を与える立場で日本のビジネスマンと製品戦略や売上計画のコミット、ブランド使用料の話をする。

ランチ会場は、陽のあたるテラスだった。会議が終わると、ジャケットを着替え、食後はダンスを楽しんでいる。欧米の参加者は婦人同伴だった。こちらは、ダークスーツとスポーツウエアしか持ってこなかった。まさか、ディナーで紫やピンクや黄色のジャケットを周りが着てくるとは想像できなかった。もちろん婦人を同伴する度胸も精神的な余裕もなかった。

ドイツとはちがう。ドイツでは、夕方会議中にメモがまわり、会議のあと夕食前にサッカーで汗を流す。シャワーをあびて、ビールを飲む。フランスでは、ランチでワインを飲み、ゆったりと夕食を楽しむ。

しかし水鳥と同じで、ゆったりと漂っているが、水中で忙しく水をかいている。成果を出さなければ、次の会議には招待されない。

◆あとがき

あと70日あまりで、ワールドカップサッカーが日韓で開催されます。

Jリーグが発足して以来、日本のサッカーファンがずいぶん国際化してきました。今では顔にペイントして応援する風景が普通に見られますが、実は頬に線状のペイントをしたポスターを89年に作ろうとしました。ところが、当時頬に線をいれるのは、その筋のお兄さんを連想させるということで、没になりました。今思えば、デザインが時代を先取りしていたわけで、クリエイティブとは縁のない人たちの多数決でデザインを決めたことが誤りでした。

しかしながら、クリエイティブなアートワークを多数決で決めることの愚かさを再認識させられる機会が、その後、何回もありました。直近では、ご存知の方には耳たこですが、種嶋シンドロームです。最新情報では、これにスピッツが相乗効果を出しているそうです。ペットの世界では、スピッツはフィラメントのようにすぐ切れ、やかましいので、マーケットプレースから姿を消しているそうです。まだ飼っている方もいるでしょうけど。

32号 3月30日発行

■目次
・ブランドイメージ調査
・米国の進駐軍

◆ブランドイメージ調査

1990年春

160カ国に散在するグループ会社すべてを対象にして、自分たちのブランドに対するイメージ調査が実行された。マッキンゼーのビジネスコンサルタントが日本にも来た。1週間滞在して、多岐にわたる調査をしていった。

15センチの厚さのレポートが提出され、結論はだれもが認める内容だった。そのような結論は、コンサルタントに指摘される前から、みんなの常識だったと反主流の幹部社員が公言した。

◆米国の進駐軍

1990年夏 

米国西海岸から、アートディレクターやデザイン制作スタッフが本社のR&Dに加わった。トレードショーは、ハリウッド出身のプロデューサーが担当した。ドイツの重厚なイメージから明るく軽いイメージに転向をはかった。グローバルマーケティングの責任者には、後発だが名実ともに世界一のライバル会社出身者が就任した。

50年以上慣れ親しんできたロゴマークを、西海岸のデザイナーが変えてしまった。既存のロゴマークに愛着のある人は、社内よりも消費者サイド、小売店、アスリートに多かった。

米国からドイツに進駐した西海岸のデザインチームは、強力なリーダーシップとスピードで会社の顔を変えてしまった。そして、莫大なデザイン料を元手に、米国の子会社の実権を握った。

日本と米国から攻め込まれて、ドイツは戦場となった。長い間、世界一であったため、まだ過去の栄光のおかげでブランドは傷ついていないという幹部の言葉に、ドイツ人は危機感を和らげていた。

日本の子会社は、西海岸の進駐軍と手を組んだ。そしてサブブランドでは、フランスと提携契約を結んだ。

◆あとがき

90年は同時にいろいろなことが起きていました。欧米ではバブルがはじけ始めていましたが、日本はまだ全盛で、証券会社の社員の年収が2000万を超え、銀行の融資を受けてマンションを投資目的で購入していた時代でした。日本のビジネスマンは怖いもの知らずであったような気がします。

今、日本のビジネスマンには当時の面影が残っているでしょうか。
確かに実力主義が普及してきました。年功序列もなくなってきました。そんなことは、20年以上前に目指していたことでしたが、一世代後の子供たちが実行しているのを見ると、自分たちもあの頃はこんな風だったのかと考えさせられます。

しかしながら、当時の年功序列は秩序を持っていました。文字どおり、年功が実際に価値を生んでいました。現在は年功が価値を持っていないような気がします。それほど、インターネットの登場は社会の仕組みを変えてしまったようです。

でも、人間のアナログ的な部分の熟成には、経験と時間が必要です。それを、教えなかった我々も罪作りですが、それよりも聞く耳をもっていない子供たちが、企業の舵取りをしているとしたら、やはり日本はアジア・パシフィック地区でも生存競争に負けてしまいます。

年功序列ではないということは、ダメな人間はたとえ年が若くても、将来性に期待して勘弁してやることはないということでしょう。役割に応じた成果を出していなければ、年齢不問で退場勧告をしなければいけません。

33号 4月6日発行

■目次

・チャンプエリーゼ
・ベルギーの海岸

◆チャンプエリーゼ

1990年初夏
チェイルリー公園の前にあるインターコンチネンタルに泊まった。バンドーム広場が工事中だ。カルティエの本店にいった。店の中にデスクのあるコーナーがいくつかあり、そこで販売係の前に面接のようにすわり、見たい品物を注文する。パシャといったら、後ろの窓から箱が出され、中にいろいろなパシャがはいっていた。マンションが買えそうな金額の時計があったので、腕につけてみた。

歩いて凱旋門に向かった。途中にぎやかな通りがあった。チャンプエリーゼと読めた。後でここがシャンゼリゼということがわかった。エリーゼ宮のそばにフランス人オーナーの事務所がある。入り口を見つけたがどうやって入るのかわからない。玄関のドアの高さが3メーターぐらいありそうだ。誰かが入っていったので、後ろについてもぐりこんだ。

玄関をはいったら中庭があった。今くぐったのは、門であった。インターホンで名のるとドアがあいた。高そうな家具がならんでいた。オーナーは留守ということで、周りは和やかに仕事をしているように見えた。彼は1日100のアイデアをまわりに指示するそうだ。そして現実的なアイデアは2~3件だと秘書から聞いた。オーナーのデスクに座り、パリジェンヌの秘書を両脇にして記念写真を撮った。つかの間の楽しいひと時だった。

日本でのマーケティング活動に関するコンサルティング契約を結ぶことになった。1時間ほど話し合い、その結果を文書にして覚書としてサインをかわし、後日このメモをもとにして契約書をつくることになった。こちらは、ここまで話しが進展するとは想像していなかったので辞書なしで、その場で英文の覚え書きを手書きした。それをオーナーの秘書がタイプアップ。流れに乗っているときはこんなものかもしれない。

基本的な合意事項、期間、金額などを記載した英文の覚書にサインした。これで年間1000万円のコンサルティング料が入ってくる。

そしてこれからが、つらい時間となる。ゆっくり時間をかける夕食が始まる。こちらは時差の関係で20時過ぎると眠くなる。話していることはわかるのだが、みんなが笑うところで笑えない。笑いのツボがちがうし、話題のバックグラウンドを知らないので面白さがわからない。ついアルコールの量が増え、酔いがまわるにつれて睡魔が襲ってくる。リドでは途中居眠りをしてしまった。それでも、相手は許してくれない、最後までつき合わされ、深夜2時過ぎにやっとホテルに送ってくれる。

翌朝は別のブランドの責任者と朝食の予定がある。午後にはベルギーの海辺のレストランでランチミーティングだ。

◆ベルギーの海岸

1990年初夏

地球のテッペンに近いような感覚があり、海が何となく重力でおさえつけられているような錯覚にとらわれる。重苦しい雰囲気だ。疲れている、話の内容が頭に入ってこない。

今日本がどうなっているのか、ニュースを聞く気もしない。会話はフランス語がメインで、面白いところを時々英語に直して説明してくれるが、そのときには周りは笑い終わっている。

パリでの成果をベルギーでお祝いしてくれた。明日は工場見学だ。製品テストなど、日本の要求を満足しているか、チェックする仕事が待っている。別のブランドで仕入れたノウハウや話題を流用して、知らないことも知っているふりをして乗り切らなくてはいけない。工場の人たちを不安にさせては、モラルが落ちてしまう。

◆あとがき

昨夜は、2週間後に控えたTホテルでのイベントの準備で3:00AM過ぎまで、KPY73さんが働いていました。そして6:30AMにメールを出したら、すぐ返事が返ってきたので、貫徹されたのかも知れません。

どうも形にならないと、また日程が近くならないとクライアントは本気にならないような気もします。納期は変えず、結論が後れるので、間に合わせるための日数が少なくなります。実際は、優先順位として、先に検討し判断する課題があって、これが手離れしないと先に進まないという状況もあるのです。
(担当者の言い訳でもありますが)

転職を実現された方へ。
「ピンチのときに流れを変え、チャンスのときに流れをつかむ」のが勝ちパターンだそうです。

流れを変えるために、船を乗り換えたのですから、こんどはチャンスのときに流れをつかむことにしましょう。

34号 4月13日発行

■目次
・エヴァキュエーション
・着の身着のまま

◆エヴァキュエーション

1990年2Q

ロンドン、ヒースロー空港。

成田からヒースローでBAに乗り継ぎ、ドゴール空港に行く予定であった。

いつものように、乗り継ぎの待ち時間をビジネスクラスのラウンジで過ごしていた。

そこへ、場内放送があり、まわりがさっと動き始めた。どこかのターミナルで何かがおこり、何かをするようにというような放送。何を言っているのか。もうラウンジには2~3人しか残っていない。エヴァキュエーションといっている。警官がきてここから退去するよう指示された。

みんながいるターミナルに移った。まわりで話しているのを聞くと、どうやらターミナルに爆弾がしかけられたようだ。すべての離発着便がキャンセルされた。乗り継ぎする便名がスクリーンから消えた。どうしたらいいか、カウンターのスタッフに聞くと、スクリーンに案内がでるまで待機という。相変わらず早口で英語の放送が流れているがよくわからない。突然パニックに巻き込まれた。テロがよくあり爆弾がしかけられるというのは、ニュースで聞いたことはあるが、実際に経験したことはなかった。4時間後、爆弾騒ぎが落ち着いたようだ。待機がとけて、離発着が再開された。じっと、スクリーンを見るだけだ。予約した便名がスクリーンにでればどこに行けばいいかわかる。

時間が解決するのだろうか、6時間後にボーディングのサインがでた。
今回、エヴァキュエーションという単語を覚えた。

◆着の身着のまま

1990年2Q

成田からフランクフルト、そこから国内便でニュールンベルグ。

旅なれてくると、荷物が減ってくる。ラフな服装で乗り込み快適に14時間あまりを機内ですごせるようになった。空港で当然のように荷物が出てくるのを待った。ところが出てこない。

クレームをだし、そのままホテルに向かった。翌朝になっても、荷物が来ない。来るまでの間、必要な衣類とかを買った場合その費用を航空会社が支払うという。

こちらは、レジャーで来ているのではない。平日昼間に買い物にいくフリータイムはほとんどない。買い物で会議を欠席することはできない。

参加者がビジネススーツでいる中で、ひとりワイシャツもネクタイもしていない。用意してきた会議資料は手元になく、3日間着替えもなく過ごした。どうやら、よくあることのようで、出席者からは、同じような経験が食事のときの話題になった。

そして出発当日になってスーツケースが届いた。中から着替えをとりだして、すぐ空港に向かった。

次回飛行機に乗るときは、書類と最低限の日用品は機内持ち込みにすることにした。

◆あとがき

90年当時、秘書をしてくれた方のことを思い出しました。一人は大手外国銀行で秘書をされていて定年退職されたご婦人、もう一人は結婚間近の若い女性でした。ご婦人の方は、ベテランで、いつも満足のいくビジネスレターをすばやく作ってくれました。だんだん慣れてくるとつい甘えてしまい、乱暴な走り書きを渡すようになりました。それでも納得いく文書ができてきました。あの頃は、E-mailもインターネットもないし、ワープロはまだ一般的ではなく、IBMの電子タイプライターでタイプアップしてFAXで送るのが主流でした。

もうひとりの女性は、経理関係をお願いしていたのですが、海外から電話すると、歯医者にいっていたりして、いないことが多かったことを覚えています。こちらが事務所にいるときはこき使われるので、海外にいるときに雑用や私用をすませているとのことでした。

あるとき、この女性がディストリビュータからの価格問い合わせに、FOBプライスリストを誤って渡したことがありました。これで日本の子会社の仕入れ原価が納品先にわかってしまいました。そのときも、海外から電話したときにわかったことで、じっとほとぼりが冷めるのを待つしか手がなかったような状況でした。

当時、危機管理意識といったものはありませんでした。引き潮のときに波打ち際に砂山を作っているようなものでした。沖を大型船が通ったときには、大きな波がきて砂山が崩れそうになります。しかしトレンドは引き潮ですから、波打ち際の砂山は常に波をかぶることはありません。勢いといいましょうか、守りよりも攻撃だけでビジネスが成り立っていました。都市銀行は、親会社のブランド力を評価して、3億円の融資の枠を提供してくれました。

そして、いつか潮がとまり、次に上げ潮にかわり、波打ち際に作ってきたバブリーな砂山が次々と波に洗われ壊れていきました。

35号 4月20日発行

■目次

・時間がない
・しゃぶしゃぶ

◆時間がない

1990年2Q

次から次へと、いろいろなことに巻き込まれはじめた。原宿で仕事をしていた頃は、縁のなかった世界に突然ひきこまれ、前からそこの空気を吸ってきた人間として振舞わなければならなくなった。

未知のことでも、「何回も経験しているから、心配するな、私にまかせるのが一番よい方法だ」などと、はったりをかませ、次回までに情報を集めて、知識を詰め込んでおく。

ただし、「持ち帰って、検討して返事をする」という選択肢はない。だれと検討するのか、今判断できないのか、ということになる。相手から、「検討して判断する人間と交渉する」といわれてしまう。

朝は5時には目が覚める。目が覚めたら、事務所にいく。7時前には、事務所にいってFAXを読んでいる。通信手段はほとんどFAXだ。FAXが届くと、すぐ返事をだす。返事は、「受け取った」「何日までに回答する」などと、とにかく何かしら、ただちに返信して存在感をアピールする。

早朝は米国と連絡をとり、夕方からヨーロッパ、日中は東アジア諸国と連絡がつく。

23時ごろになれば、また米国のオフィスが開く。ゆっくり眠っている時間はない。

覇権と利権をめぐる社内の抗争は、日常茶飯事で本社の会長自らがプレーイングマネージャーだ。日本の代表の虚言癖は、ますますエスカレートしてきた。この頃は、受信FAXを改ざんして利用している。受信したFAXを都合の悪いところは削除して、回覧したり、取引先に見せたりしている。それがわかって以来、真っ先に事務所にいき、すべてのファックスを読み、必要なものはコピーして、オリジナルを元にもどしておく。

外からは、いろいろなブランドの情報が持ち込まれ、判断を求めてくる。内では、それを利権として金に換えることにしのぎを削っている。

体調を崩すと、グローバルミーティングに出席できない、FAXにレスポンスができない、次から出番がまわってこない。会議でパフォーマンスがなければ、次回は会議メンバーから削除される。日本のマーケットに触りたい連中が、自己PRをしてくる。この連中に軽く見られると生存競争で負けてしまう。

◆しゃぶしゃぶ

1990年2Q

長男が高校受験の年頃になっていた。近頃では顔をみることもなくなり、一緒に食事する機会もなくなっていた。1日の大半を会社のことに使っていたので、家族との付き合いは優先順位が低かった。

一期一会ということで、仕事の付き合いのある人、ビジネスを展開する上でキーとなる人物、先行投資の価値がありそうな人たちと食事をすることが、重要なビジネス活動になっていた。ゴルフもしたが、1日拘束されるのが辛かった。食事をするにもゴルフをするにも、体力が要求される。二日酔いは許されない。相手に不快に思われたら、接待した意味がない。

そんな中で、長男と食事をしてみようと思った。芦屋駅の近くにフルサイズのキャデラックを乗りつけ、しゃぶしゃぶを注文した。当然のように、店で一番高いコースを選んだ。

長男が「おいしい」といって、黙々と食べていた。2人前食べた。

「おいしい」と声をあげた長男の言葉に、少し違和感を持った。食事がおいしいと感じたことがなかった。最近は、美味くて、雰囲気のよいところで食事をするよう心がけてきたが、おいしく食事を楽しめる余裕がなかった。「おいしい」ではなくて「美味い料理をだす店」ということしか頭になかった。ペンディングの件、次のアクションなどが頭からはなれず、今を楽しむ気持ちがなかった。

◆あとがき

昨日、設立6年目の外資の会社で、社員に3200グラムの長男が誕生しました。設立以来、社員に子供が産まれるとか、結婚とかの慶事がなかったので、就業規則を見直す必要があるかもしれません。

ともかく、安産で、母子ともに健康ということで、大変おめでたいことです。仲間の喜ぶ顔を見て、その喜びを共有すること、ナレッジマネージメントなんかより、もっと素朴で大切なことだと、思います。最近、少し大人になりました。

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36号 4月27日発行

■目次

・トップの会話
・子会社設立

◆トップの会話

1989年2月3日 東京青山にて日本のディストリビュータの社長と、その親会社の専務が今後の方向性について合

意した模様だ。この会話の詳細なレポートを入手した代表はドイツ本社に次のようなFAXを送った。

1988年の成績について、カネチュー(ディストリビュータ)全体として、奇跡的なスキーウエアの売上げの助けにより、ほぼ予定通りの成績を達成することができた。しかしアドルフ社(ドイツ本社、ライセンサー)関連ビジネスは10億円以上のロスとなり、残念だ。カネチューの本社からは利益がでないことを強く指摘されている。アドルフ社からは、目標に達せず、マーケットシェアが伸びず、在庫増によるディスカウント販売でブランドイメージがダウンしたといわれている。双方から失望の
コメントを受けている。

長野(カネチュー社長)

私は、なぜガイザー(アドルフ社長)が50億円に固執するのか理解できない。この

数字に向かって経営を続けていくことは、利益を完全に無視して拡大経営をしていくことになり、カネチューとしては不可能である。カネチューにとってアドルフグループの売上は33%以上の企業内シェアを持っている。このブランドは必要である。そこで我々がお願いしたいのは、アドルフの日本における商売のすべてのTrade Mark Rightを親会社が買い取ってもらうことだ。巨大な金額になるかもしれない。現在カネチューで利益に貢献しているブランドは、米国から買い取ったものだ。これがカネチューにとってベストだと思う。日本独自のアドルフ製品群をカネチュー独自の権限で展開したい。

岩田(青山の親会社専務)

私は短期間の間に何度もガイザー(アドルフ社長)と直接話し合った。ガイザーは君たちが要望するように日本のマーケット向けに商権を売却することは絶対にない。ただし、アドルフ社の財政事情が悪く、直近で金が要るという場合は、話にのってくるかもしれない。しかし私の考えは現実性のないことを議論するのは好きではないということだ。もっと双方が満足できる方法があるはずだ。

長野さん、君の一番の目標は何か。

長野(親会社から出向中)
私がカネチューに来た目的は、潰れた会社の再建と復配である。1990年3月決算で達成できると思う。

岩田
アドルフビジネスでもっとも問題になるのは何か。

長野
シューズだ。私は1986年契約更新をドイツとしたとき、シューズは外してほしいといった。なぜなら、経験がない、うまくやる自信がないといったが、ライセンシーはパッケージで引き受けてほしいといった。シューズを引き受ける会社はすぐにはないということで、無理に押し付けられた。元来、他社のビジネスであり我グループのビジネスではない。

岩田
カネチューが子会社を設立し、他社の社員を引き受け、現在も法的にシューズとハードウエアが子会社のビジネスになっているのはそういう理由か。実は本社のマネージメントが、18年もディストリビュータをやっているのにもかかわらず、アドルフのマネージメントと会ったのは、私が初めてだった。

長野
アドルフ本社のシューズの現状はテリブルだ。品質管理、出荷、製品構成、モラル、並行輸入をコントロールする力がない。すべて、これが世界一のシューズメーカーとは思えない現状だ。

岩田
私が、アドルフ社の日本代表から聞いている話は、ガイザーは組織の改革に取り組み長期的視野にたって、アドルフをさらに飛躍させるのは間違いないということだ。シューズ部門の悪い状況は、一時的なものだ。ハードウエアとはどういう意味か。

長野
バッグ、ラケット、ボール、ゴルフなどで、テキスタイルとシューズ以外のことをいう。我々はこの分野にほとんど人と金をさくことができていない。

岩田
それならば結論がでている。カネチューからシューズ・ハードウエア部門を切り離し、新会社をアドルフジャパンとして、HQが直接経営する。テキスタイルについては、アドルフジャパンからカネチューがライセンスを受ける。アドルフジャパンには、カネチューと青山本社がJVで参加すればよい。アドルフビジネスは、アドルフが満足することを第一に考えることが、長く付き合うカギである。

◆子会社設立

1989年3月31日

アドルフのサブブランドを日本で販売する100%子会社をアドルフが東京に設立。

新たにサブブランドのライセンス契約をしたJO商会とは、将来アドルフのシューズ・ハードウエアビジネスをカネチューから引き受けるという秘密事項があった。

◆あとがき

バブル華やかな時代に、覇権と利権をめぐってグレーなグローバルミーティングが、月に1回ほど欧米で開催され、そのほとんどに出席しました。今回の会話のメモで思いだしました。実は、日本の代表と各国のキーマンとの間でかわされた極秘のメモの翻訳は、秘書を使わなかったのです。その都度、私が代表によばれ口述筆記でタイプアップし、サインをもらってFAXで極秘文書として送信していました。

当時ディストリビュータのCEOであった長野氏(仮名)は、先日、引退されましたので、今回メモを紹介しました。

37号 5月4日発行

■目次
・1989年のトピックス
・住銀大手町

◆1989年のトピックス

3月
アドルフのサブブランドを日本で販売する100%子会社をアドルフが東京に設立。

要員は親会社のメンバーが兼務しランニングコストはミニマムとして、利益がでる事業モデルになった。

4月
体協の国際部長が、転職して日本チームのくわわり、プロモーションの責任者として東京に事務所を開設。これで日本は3つの事務所が同時に動き始めた。

7月
仏社会党議員が、ドイツ人ファミリーから95%の株を買収。オーナーが替わった。

8月
日本プロジェクトの主要メンバーの田原が辞表を提出。4人で3つの事務所から、3人で3つの事務所を運営することになった。

10月
JO商会、シューズを中心とした新ブランド発売の記者発表。3月にアドルフの子会社から購入したシューズ3万足を市場に出した。

12月
米国ニュージャージーからサブブランドのCEOが来日。新宿のホテルで記者会見。田原が辞表を出したことを正式に伝え、日本はポランが引き継ぐことで合意した。

◆住銀大手町

10月30日11:30AM。
JO商会、常務より電話があった。

1)本日9:30AMより住銀大手町で会談。出席者はJOからは社長、常務と2名の取締役、カネチューからは、社長と専務2名が出席した。

2)カネチュー長野社長が「正式にJOと組むことに同意する」と発言。カネチューはアパレル、JOはシューズとライセンスを分けることで交渉開始。

3)JOは取締役営業企画室長と取締役海外業務担当を、カネチューは事業部長、経理部長、社長室長の3名の取締役を担当につけた。

4)現場の営業部隊には内容が煮詰まってから告知する。

5)第2回の打ち合わせは、11月5日13:30より住銀本店で行う。

本社にコンフィデンシャルレターで報告。

◆あとがき

昨日は「オファーレター」のサンプルがないかと、gooで検索したところ、37番目になんと「KPY」のウェブサイトがヒットしました。意外でしたが、情報発信者としての責任を感じました。

新宿にある外資の話です。

即戦力のメンバーが3人加わることになったそうです。そのうちの2人からオファーレターを要求されました。年長の方には、新宿2丁目のレストランで、紙ナプキンに数字を書いて決定した話をお知らせしました。奥様を納得させたいという理由を聞き年少者には、オファーレターなるものを即日郵送したそうです。

一方、年長の大物の方については、迎える側が、取締役の合意を得るため根回しに時間をかけています。ご存知でしょうが、大物はタイミングをはずすと別のところに行ってしまう恐れがあります。ここでも意思決定のスピードが要求されます。スピードが事業計画達成の成否に重大な影響を与えていることを経営陣に徹底するのは、なかなか容易ではないようです。

38号 5月11日発行

■目次

・1990年のトピックス
・日本の守備範囲

◆1990年のトピックス

1月
田原、前年8月に出した辞表を撤回。フランスのテキスタイルチームに加わり、アドルフジャパンからドイツ本社へ移籍。しかしデスクは日本に置き、しかも田原の人件費は日本が負担することになった。この時点で田原は、グローバルなテキスタイル部門を除く、日本法人化のプロジェクトチームからは外された。

3月
ドイツから出向していた靴職人(プロダクトマネージャー)が日本滞在中に退職し、新興競合ブランドのインドネシア工場に転職した。

8月
カネチュー(ディストリビュータ)の夏期休暇中に、新宿のホテルで日本法人化を極秘に検討。アドルフ本社より専門家が来日し、1週間集中検討会議を実施。1991年6月を目標に年商300億円の子会社設立準備を開始した。

10月
ドイツ本社はシューズのサブブランドを英国人投資家に売却。アドルフジャパンが昨年3月設立したパイロット子会社の商権は、かろうじて存続できたが、アドルフグループのサブブランドを販売するという事業目的とメリットがなくなった。アドルフジャパンの子会社は、資本関係のない英国のオーナー会社と取引することになった。われわれは子会社の事業を兼務していたので、ドイツと英国にそれぞれレポートすることになった。

11月
アドルフ社のファミリービジネスを買収したフランス人オーナーが来日した。日本企業各社のトップと会談。アドルフジャパンは臨時社長室となり、オーナーのドライバーも兼務した。オーナーはフランス語しか話さない。そこで、通訳を期間中臨時に雇った。

12月
25日、アンカレッジでアドルフ社CEOガイザーが日本のディストリビュータであるカネチュー長野社長と秘密会談。31日カネチューはキャッシュで50億円ドイツに振り込み、日本およびアジア地域におけるサブブランド(水着、テニスウエの商標権を手に入れた。

◆日本の守備範囲

1990年は、アドルフ社が持っていたサブブランドが、フランスや英国に切り売りされた年であった。アドルフジャパンは、サブブランドを担当する子会社をもっていたので、各ブランドの新オーナーとも取引ができる立場にあった。

◆あとがき

本号で1990年の主な出来事をご紹介しました。当時はバブルがまだ日本では健在でした。今ふりかえってみると、私たちはビジネスフィールドを「博打とギャンブル」の賭場としていたような気がします。今後しばらくこの出来事の裏でうごめいていたグレーな部分を再現していきます。外資で仕事する際のご参考にしていただければ幸いです。

39号 5月18日発行

■目次

・1990年1月
・1990年3月
・1990年4月

◆1990年1月

田原が前年8月に出した辞表を撤回。フランスのテキスタイルチームに加わった。しかしデスクは日本に置き、しかも田原の人件費は日本の負担になった。また、日本マーケットをめぐってパワーゲームが始まった。今回は、アメリカが加わった。米国のエキンというライバルメーカー出身者がアドルフ本社の商品企画の責任者になり、フランスにテキスタイルのデザインセンターを移した。

プロダクトマネージャーたちは、フランスに拠点を移すことになった。ドイツの地方都市ではデザインとかトレンドとかの最新情報を入手することや、有能な人材をリクルートすることも難しかったので、パリ郊外の城にかなりの投資をしたようだ。

ドイツ人創業ファミリーはすでに95%の株をフランス人実業家に売却していたので、パリに商品企画部門を移すことに問題はなかった。しかし、新しい体制での金の使い方は派手になった。パリのデザインチームは城に住んで、贅沢に仕事をしているとドイツ人が言っているのが聞こえてくる。

◆1990年3月

ドイツから出向していた靴職人(プロダクトマネージャー)が日本滞在中に退職し、新興競合ブランドのインドネシア工場に転職した。

創業時から働いている靴職人を父にもち、親子2代でブランドを育ててきたドイツ人が、アジアの出向先で退職した。ドイツに帰らずアジアに夫婦で留まる。ドイツ人の職人気質は、パリのエスプリと肌が合わないらしい。アメリカ人の開発責任者は、エキンの手法をとりいれ、ビジネスユニットを導入し、ロゴマークを新たに追加した。

◆1990年4月

カネチューのハードウエアの商品企画担当者が辞表を出した。
日本のディストリビュータの中でも、動きがでてきた。「現在のポジションでは今後のキャリアアップが期待できないので別の会社にいくことにした」という退職のコメントがドイツと日本で増えてきた。

◆あとがき

先週、上場企業の会長さん(同好会の会長ではありません!)が、興味ある発言をされました。辞表を出した部下に「潰れるかもしれない会社になぜ転職するのか」と慢心の放言でした。山一がなくなり、多額の現金を持っていたスノーブランドも風前の灯。自分の会社だけは潰れないと勘違いしています。経営者は常に危機感を持って暮らしていると思っていました。IT企業でも上場するとベンチャー精神がなくなるのでしょう。これでは、幹部社員は逃げ出します。

40号 5月25日発行

■目次
・1990年8月
・1990年10月

◆1990年8月

アドルフ本社のコントローラーが来日した。カネチュー(日本のディストリビュータ)の全社的夏休みにぶつけ、新宿のホテルで日本法人化に向けて、1週間集中検討会議を実施。1991年6月を目標に年商300億円の子会社設立準備を開始した。

昨年11月シカゴで法人化のプレゼンテーションをして以来9ヶ月がたった。ドイツ本社の意思決定には時間がかかる。ドイツの職人たちの集まり、博士号をもつドイツ人ビジネスエリート、フランス人オーナーとそのグループ、それにアメリカの新興勢力が日本市場に興味を持っている。日本では、カネチュー、JO商会などが利権獲得で別の動きをしている。そういう中で、ガイザー(ドイツ本社CEO)の日本の公式代理人として本社のコントローラーと具体的な交渉を始めたのである。

事業計画書はドイツの会計制度と日本の会計制度の違いを意識しながらまとめていくので、その両方の制度に詳しい会計事務所のサポートが必要だった。会計処理の話題になると、自分にふられないよう、専門家を前面に出して乗り切った。

朝食と昼食はホテルですまし、夜は町場へ出た。贅沢なレストランで優雅な食事をした。しかし食後の接待は一切しなかった。時差の関係で、夜はドイツ本社との調整で遊んでいる時間がなかった。

◆1990年10月

アドルフはシューズのサブブランドを英国人投資家に売却した。アドルフジャパンが昨年3月設立したパイロット子会社の商権は、かろうじて残ったが、アドルフグループのサブブランドを販売しながら、利益を蓄積し、本体の法人化をはかるという戦略が崩れてしまった。アドルフジャパンの子会社は、資本関係のない英国のオーナー会社と取引することになった。われわれは子会社の役員を兼務していたので、ドイツと英国にそれぞれレポートすることになった。

サブブランドを買収した企業は、フィットネスシューズの株の売却で巨額の現金を手にしたユダヤ系のオーナー会社であった(アドルフ本社のコントローラーもユダヤ人)。これで日本市場をめぐる利権獲得のレースに英国企業が加わった。ユダヤ人、ドイツ人、フランス人の3文化が入り交じって国際的な駆け引きが始まった。日本語は通じないので、フランス語とドイツ語がわかる日本人を必要なときにその場限りで使った。国内の競争相手に情報が漏れるのを恐れたため、通訳はその都度替えた。英語での会議中に我々が日本語で意見のすり合わせをするときは、カタカナや人名は、すべて漢字の単語に置き換えた。(フランス:仏の国)

ドイツの子会社を、英国の子会社にする選択肢もでてきた。英国企業はサブブランド買収から本体の買収まで考えているかもしれない。香港のソーシングオフィスの香港人CEOは、サブブランドではなく、アドルフ本体のマークを名刺に印刷していた。

アドルフのライセンスビジネスは、ライセンスのロイヤリティ収入に加えて、ライセンスそのものを切り売りするようになった。切り売りされたブランドの社員が生き残るためには、新しいオーナーと切り売りされる前に、自分自身を売り込んでおかなければならない。人品卑しいとんでもない人物が日本代表だが、そいつを含めて、関係各国のオーナーにパフォーマンスをアピールしていかないと、失業することがわかった。グレーな人間関係の中で、体調を崩して会議を欠席すると、後ろに控えている奴が次回の会議出席メンバーを書き換えてしまうリスクが発生する。健康管理ができない人間は勝てるチャンスが少ない。

◆あとがき

先日3ヶ月ぶりにJ-Teamという、マネージメントチームのメンバーが集まりました。この方たちは、日本進出をめざす米国のIT企業や、進出したがうまくいっていないスタートアップの会社をターゲットにして、営業活動をしてきました。昔のアイアコッカ、今なら日産のゴーンさんのように目標達成をコミットするマネージメントチームを丸ごと売り込む提案活動を1年半ほど続けていました。どうやら、提案から実行の段階に入ったようで、毎日威勢のいい話が伝わってきます。

TVで「あやかりたい、あやかりたい」というコマーシャルが流れています。まさにチャンスをつかみ、上げ潮にのった方々の勢いは止まりません。

そういうマネージメントチームには「あやかりたい、あやかりたい」と人材が集まってくることでしょう。

41号 6月1日発行

■目次
・1990年11月、オーナー来日
・1990年12月、サブブランド売却

◆1990年11月、オーナー来日

アドルフ社のファミリービジネスを買収したフランス人オーナーとCEOのガイザーが来日した。日本企業各社のトップと会談。アドルフジャパンは臨時社長室となり、オーナーのドライバーも兼務した。オーナーはフランス語しか話さない。そこで通訳を雇った。

成田から箱根

成田からヘリコプターをチャーターして箱根へ移動。
オーナーは30分ほどで箱根に到着、ゴルフ場でカネチューの長野社長と会談。こちらはドライバーとなり、成田から箱根にベンツ560を運んだ。3時間ほどかけて箱根に到着、とんぼ返りで、パリから同行したスタッフが待つ東京の銀座のホテルにチェックイン。

車中で、オーナーに「このベンツ560はアドルフジャパンの社有車か」と聞かれた。「友人の車を無料で借りた。ただしガソリン代はオーナーが払ってほしい。」と答えた。オーナーはその答えに満足した。日比谷~成田~箱根~銀座と長距離を1日で走ったが、ベンツは快適だった。狭い道では真ん中を徐行すれば対向車は路肩で道を譲ってくれた。

オーナーは精力的に動いた。パリから成田到着、箱根で会談。東京のホテルにもどり、スタッフと会食。200グラムのステーキを一番早く平らげた。地中海に3本マストのヨットを持っていることが話題になった。オーナーは絵をかいて15分ほど説明してくれたが、描いた絵はその場で破って捨てた。近くの席で秘書が1万円札を10枚ずつホッチキスでとめていた。

CEOのガイザーは独仏英の3ヶ国語堪能で日本語をすこし理解する。ガイザーはオーナーとは仏語で話し、日本の代表とは、日本語混じりの英語を使う。日本の代表は別途手当てを通訳に払い、オーナーが話している内容を聞き出している。

カネチューはサブブランドを40~50億円キャッシュで買うといったようだ。

大手銀行のM&A部門と会談した。内容不明。

テレビ局では、だれかと会った。玄関まで送って待機していたから内容は不明。

百貨店のオーナー経営者と麻布で会談。グループの迎賓館に初めて入った。庭には滝があり、ヨーロッパ風の贅沢な建物で、高そうな家具調度品が並んでいた。初めてド
ライバーの扱いを受けた。ベンツを地下の駐車場へ入れると、ドライバーの控え室に案内された。すべてTV付の個室で、飲食の提供を受けた。

「国内旅行は一緒にしましょう。お互いの自由のために、結婚についてはよく考えてからにしましょう」これが通訳からきいた、百貨店グループオーナーとの合意内容だった。百貨店グループには、自前の資金がなかった、青山の商社には現金があった。

◆1990年12月、サブブランド売却

25日。
アンカレッジでアドルフ社CEOガイザーが日本のディストリビュータであるカネチュー長野社長と秘密会談。31日カネチューはキャッシュで50億円ドイツに振り込み、日本およびアジア地域におけるサブブランド(水着、テニスウエア)の商標権を手に入れた。

50億円の現金が流れを変えた。

◆あとがき

先日、大手日刊新聞の見開き2ページで、アドルフ社(仮名)の沿革が紹介されていました。そこには、本編で展開しているエピソードや人物が登場していません。歴史が書き換えられたというより、当時の歴史を語る人間が、その時は蚊帳の外にいたから、起きた事実と我々が狙っていた計画のあらましを知らないのです。記事では88年から92年は波乱に富んだ期間で会社の存続すら危うかったと記されていました。

あれから10年後に日本法人化が実現したのですが、現経営陣は当時のできごとには詳しくないはずです。M&Aのマネーゲームを演じたバブルの役者は、そのほとんどが表舞台から降りてしまっています。当時を語る現経営陣は確かにその時会社にいましたが、プレーヤーではありませんでした。周辺にいた無害で影の薄かった人たちが、今、歴史を語っています。小学校の地理の教師が行ったことのない外国について教材を使って児童に教えているようなものです。

敗戦の将が語る歴史に、勝者が耳を傾けることはないかもしれません。ゲームの詳細を敗者が話すことは、勝者を利することになるでしょう。

負けを経験したことがない人は経営者の資質に足りないところがあるといって、敗者復活を積極的に評価するヘッドハンターが存在します。

42号 6月8日発行

■目次
・1990年12月、50億
・1991年のトピックス

◆1990年12月、50億

25日。
アンカレッジでアドルフ社CEOガイザーが日本のディストリビュータであるカネチュー長野社長と秘密会談。31日カネチューはキャッシュで50億円ドイツに振り込み、日本およびアジア地域におけるサブブランド(水着、テニスウエア)の商標権を取得。

カネチュー親会社のキャッシュが、パワーゲームの流れを変えた。これで、カネチューはアドルフの日本市場におけるライセンス契約を延長できた。ライセンス権を狙ったJO商会は、親会社から資金調達に失敗した。これで、アドルフジャパンはパートナーを失い、法人化の見通しは、グレーになった。

◆1991年のトピックス

3月
体協から転職してきた小林が退職。アドルフジャパンの東京プロモーションオフィス閉鎖。小林はJOC(体協から派生した組織)に横すべり。

4月
ジャン・クズ(フランス人)がシューズ担当としてフランスから出向。

6月
アドルフジャパン、ベルギーのラケットメーカーと日本市場のコンサルタント契約。

8月
世界陸上東京大会。アドルフ社は複数年のメジャースポンサーであるため、アドルフジャパンが窓口となる。打ち上げパーティの席上、田原はまた辞表を提出。

9月
ユダヤ系イギリス人のボータイがルドルフ株を20%取得。
ここから、アドルフジャパンの法人化が再スタート。

10月
ベルギー大使館で、ラケットメーカーの記者発表会を仕切る。フレンチオープンの優勝者が出席するパーティを開催。

11月
田原退社。米国化粧品メーカーの日本支社に転職。

◆あとがき

先日、東京フォーラムで洋酒メーカーのオーナー社長の講演を聞く機会がありました。この社長は4代目で、創業者のお孫さんです。たまたま、この方の妹さんと大学が同期であったこともあり、興味をもってお話をうかがいました。

冒頭、彼は「こういう講演会でスピーチをするようになると会社は危ない」と受けを狙ったようですが、講演のはじめの10分で「この会社は危ない」と感じました。95%の株をファミリーが所有する非上場大企業です。幹部社員は、自分に社長の座がまわってくる危険がないので安心しているといっていました。世襲制の経営で終身雇用に固執しています。

どうも、この経営者は実業に携わっていないような気がしました。話の内容に具体性がなく、課題の重要性は指摘するが、どう解決していくかコメントをしないワイドショウのレポーターのような雰囲気です。講演会に登場することにより経営者のパーソナリティや資質が明るみにでてしまいます。その意味で、「こういう講演会でスピーチをするようになると会社は危ない」という指摘は正しいと納得し、今後このメーカーの商品を買わないことにしました。

43号 6月15日発行

■目次
・1991年3月
・1991年4月

◆1991年3月

3月
体協から転職してきた小林が退職。アドルフジャパンの東京プロモーションオフィス閉鎖。小林はJOC(体協から派生した組織)にでもどり。

本社のCEOガイザーは、心身の鍛錬のため幼い頃から柔道を学んでいる。ドイツに留学して現地で柔道教師をやったのが小林で、その頃、小林はガイザーとの師弟の付き合いができた。小林は現地でドイツ人と結婚し、ドイツ語が堪能。体協の幹部職員からアドルフジャパンに転身したが、ガイザーは英語が苦手な小林をロンドンのベルリッツへ2ヶ月通わせた。ガイザーは、柔道の師である小林を別格の待遇で迎えた。

柔道家そして体協の職員という経歴には、国際的な人脈はあっても、外資のビジネスマンとしてのキャリアが欠落していた。日本法人化という美味しい部分は味わえても、カネ・人・モノの動きを理解しない。スポンサーシップや利権をめぐるグレーなカネの動きは得意分野だが、人・モノ・ロジスティックスにかかわる地味な力仕事には、無縁であった。

五輪招致の組織ができると、もとの鞘に納まった。

◆1991年4月

4月
ジャン・クズ(フランス人)がシューズ担当としてアドルフ・フランスから出向。昨年3月、親子2代で靴職人として働いていたドイツ人が、アドルフジャパン出向中にライバル会社のインドネシア工場に転職した後、空席であったシューズ部門の責任者としてアドルフジャパンに出向してきた。

ビジネスレターはすべて秘書にタイプさせた。どうやら、キーボードは使えないようだ。自分でタイプライターを使ってレターを書くアドルフの幹部社員は少なかった。小型のテープレコーダーを持ち歩いて用件を録音し、秘書はテープを再生して仕事をするという光景をよく目にした。

本社の担当部門の責任者の回答が遅いので、電話すると、秘書が休暇をとっていたので回答をタイプアップするのが遅くなったという言い訳をする。幹部社員の秘書は専属なので、他の秘書に引継ぎをしないようだ。引き継いで、休暇をとれば、オフィスに戻ってきたときには仕事がないのかもしれない。

クズは、オフィスでフランスに長電話をよくしていた。月にクズが使う電話代は20万円を超えた。フランス人と仕事をするのは初めてで、個人差はあるだろうが、こいつはハードワーカーではない。そして、英語が堪能ではなく、日本人の下手な英語が理解できない。日本人も、フランス語なまりの英語がよくわからない。おまけに、ドイツ人からは感じる潔さが、この一例からは感じられない。

◆あとがき

FIFAワールドカップが開催中です。日本でもそれなりに盛り上がっていますが、韓国では国民的なイベントになっているようです。巨大スクリーンが設置された海岸や公園には、日本の花火大会のように沢山の人が集まっています。赤いシャツを着て、いたるところで応援しています。試合当日は、学校や会社が休みになるそうです。

新宿にある会社では、試合中はTVで応援したいので、会議をやらないでほしいと社員がいいます。「国が主催している国際的なイベントで、ナショナルチームが出場している試合を、なぜ応援しないのですか。」

40年以上も前に聞いた、JFKの有名な大統領就任演説を思い出しました。「国家に何をしてもらうかではなく、自分が国家に何ができるかを問いたまえ」

どうも、求心力・忠誠心・団結力・積極性・礼儀作法とかで韓国に負けているような感じです。

44号 6月22日発行

■目次
・1991年6月
・1991年8月

◆1991年6月

パリ
アドルフジャパン、ベルギーのラケットメーカーと日本市場のコンサルタント契約。

1989年7月にアドルフ家は95%の株を実業家で国会議員でもあるフランス人に売却している。仏人オーナーの所有するブランドには、ラケットと自転車があった。

ラケットメーカーはベルギー国営企業でもあったので、在日ベルギー特命全権大使、商務官が何かと応援してくれた。

年に2回ミュンヘンメッセで開催される展示会では、このラケットメーカーのブースで過ごす時間が増えていた。アドルフ社でもテニスのビジネスユニットがあったが、あまり成功していなかったので、このメーカーとの提携が話題にのぼっていた。

アドルフジャパンの法人化に向けたパイロット会社がこのブランドを扱った。オーナーが同じなので話しは早かった。仏人オーナーの側近と友好な関係をつくることができたので、日本でのマーケティングの代行権を手にすることができた。カネチューの本社(青山にある商社)の別部門が出資する会社がこのブランドのディストリビュータであった。

ブランドオーナーが同じ、ディストリビュータの親会社が同じということで、ドイツに加えてベルギーのブランドも担当することになった。6月パリにいき、エリーゼ宮近くのオーナーの事務所でコンサルタント契約について合意をとりつけ、その場で契約書の草案をまとめた。ベルギー、フランス、日本の法務部門のチェックを経由して2週間でコンサルティング契約を締結した。

これで、ランニングコストの微増だけで、アドルフジャパンの収入が増えた。2枚の名刺を使い分け、カネはあるが、使う時間がない生活が始まった。ラケットの展示会や工場見学、セールスミーティングなどで、ヨーロッパ各地を転々とする生活が追加される。フランス語が公用語のブランドなので、通訳を使う機会が増える。

◆1991年8月

東京の夏。

世界陸上東京大会。アドルフ社は複数年のメジャースポンサーであるため、アドルフジャパンが窓口となる。打ち上げパーティの席上、日本法人化の覇権争いを断念したのか、田原がまた辞表をアドルフCEOに提出。

◆あとがき

名のあるPC/家電量販店チェーンの建て直しに成果がでないまま、今度は系列のシステム開発会社の社長に横滑りした人物の近況をたまたま耳にしました。

増収減益を繰り返してきた会社に増益を要求しています。この人物の利益確保の手法はわかりやすいです。減収を恐れない経費カットとリストラで増収という短期勝負です。目先の利益が出ない先行投資はしないので、経営計画はシンプルな内容になります。そして今回この人のリストラ手法を垣間見ることができました。

徹底的な内部監査をして、経費の流れを洗い出し、接待の中身を精査し、不適切な交際費を使った幹部社員を特定しました。給料天引きで個人が不正に流用した金額を回収するという方法で、会社は不正の内容と処分を明らかにしました。別件逮捕でリストラの布石を打ったものと想像されます。当時認められた、または指示されて実行した内容について、社長が替わったことによって、それが違法行為であると判断されて処分されるわけですから、敗戦国の兵隊がA級戦犯にされるようなものです。当事者は首を洗ってお裁きを待つか、または、さらし首を逃れるために転職するか迫られていることでしょう。いずれは就業規則違反でリストラされるというストレスが社内に蔓延しているものと思います。

幹部社員の首をとれば、その子分のリストラは簡単でしょう。さすがリストラで名を残す人物です。パワーゲームのツールとして内部監査を活用しています。

45号 6月29日発行

■目次

・1991年8月
・1991年9月

◆1991年8月

東京の夏。

世界陸上東京大会。アドルフ社は複数年のメジャースポンサーであるため、アドルフジャパンが窓口となる。この大会のスポンサーとして、実に多くのことを体験した。

一言でいえば、多額の現金が動いたということだ。この舞台裏の話を語ると数時間はかかる。ただ、今振り返れば、このときがバブルのピークであった。

開会式は雨が降っていた。傘をささず、スポンサーの席に座っていた。本社のCEOと私鉄のオーナーが、高輪の茶室で会食をしているとき、東京代々木の国立競技場では男子100メーターで、米国の選手が10秒を切る記録で優勝した。私はCEOを赤坂から高輪に車で送り届けた車のなかにいた。玄関前の駐車場で、車載テレビで観戦した。

打ち上げパーティの席上、日本法人化の覇権争いを断念したのか、田原がまた辞表をアドルフCEOに提出。12月末付で退職し、コスメティックの米国企業日本支社に移るという。

◆1991年9月

9月
イギリス人のボータイがルドルフ株を20%取得。「鉄の女」と呼ばれた英国初の女性首相の後援者で、ユダヤ系の実業家がドイツ企業の経営に参加してきた。

90年12月にカネチュー側が50億の現金でテキスタイルのサブブランドの商権を買収した段階で、消滅したはずの日本法人化の動きが、今度はシューズのサブブランドを買収した英国企業の登場で、流れがまた変わった。1990年10月にルドルフのシューズのサブブランドを買収したオーナーが、今度はルドルフ本体の株を20%取得した。これでルドルフジャパンは軌道修正ができそうだ。

日本法人化は、ニュールンベルグからロンドンに舞台が移った。

◆あとがき

FIFAワールドカップがまもなく幕を下ろします。もし、ルドルフの日本法人化が実現していたら今頃は各地の競技場の貴賓席で試合を観戦し、日韓を煩雑に往復していたと思います。IFという個人史の分かれ道で、もう一方の道を歩んでいたらどうなっていたかとテレビでサッカーのシーンが映るとふと考えます。

今は、身の危険もなく、虚構の世界に無縁な毎日です。外資企業に10年ぶりに復帰したのですが、以前にはなかったインターネットを介したB2BとかCとかEとかのマーケットプレースなるものに触れ、あの頃これがあったら、時間をかけずにもっといろいろなことができたと思います。今日の情報技術を活用できたら、もっと遠くに行けたことでしょう。あの頃は、重い東芝ダイナブックとポータブルのプリンタを機内に持ち込んで、ウルトラマンの時間制限同様、あっという間にあがってしまうバッテリーの残り時間を気にしながら、ワープロと表計算のロータス123を使っていました。

46号 7月6日発行

■目次

・1991年10月
・1991年11月

◆1991年10月

10月
東京にあるベルギー大使館で、ラケットメーカーの記者発表会を担当。フレンチオープンの優勝者をゲストにして、スポーツ記者とスポーツ用品店のキーマンを集めてパーティを開催。特命全権大使と商務官が全面的にバックアップしてくれたため、普段縁のない、大使館での高級感のあるパーティを体験することができた。

試合前のコンディションに気をつかっていたのは、選手本人よりマネージャーの方だった。タイトルのかかったメジャーな大会だったが、選手はそれほど緊張していない。その時々のイベントを楽しんでいるようだ。有力選手がみせる余裕というものかもしれない。

◆1991年11月

11月
田原が退職。東京青山にある米国化粧品メーカーの日本支社に転職。やっと、日本法人の覇権争いが一段落したと思った。しかし、田原がいなくなった時点で思いがけなく、新たな戦いがはじまった。

今まで、内部の問題を田原に振り向けることによってごまかしていたので、今度は田原に代わる羊が必要になった。ルドルフジャパンの代表は、自分の秘書が不正をしているといい、探偵を雇って、素行調査をすることになった。代表の過去を知る人物から、前の会社では彼は社員のデスクに盗聴器を仕掛け、自分の部屋で聞いていたから、注意するようにという情報がはいってきた。内部牽制というよりは、下半身の関係を含む、どろどろした内輪もめという状況になってきた。

社内の対立勢力を一掃することによって、この組織は求心力が高まり、モチベーションが強化されるということには、ならなかった。弱体化しつつ、分裂が促進される皮肉な結果となった。

◆あとがき

30年ぶりの沖縄に先週行ってきました。平日に休暇をとり、梅雨明けした沖縄のビーチでつかの間ですが、ゆったりした時間を楽しむことができました。前回は、まだ返還前で、車は右側通行の時代でした。左ハンドルの日本車のレンタカーで観光をしました。道路標識がわかりにくく、苦労したことを覚えています。

今回はサミットや2000円札のおかげでしょうか、道路が整備されていて、走りやすく、幹線道路沿いではどこでもPHSが通じました。また、遊泳場といっていた場所がリゾートと名称を替え、サンゴの破片が一面にあって、素足で歩けなかったビーチが、すべて人工海浜になっていて、ハワイと同じような、きれいな砂浜になっていました。

夏休みを先取りし、これから全開で仕事をして行こうと思って平日休みをとって行ったのですが、夏休みはまた別の口実で、海外にでも行こうかと思い始めています。仕事が忙しくなると、より健康な精神状態を保つためにリフレッシュが必要です。

47号 7月13日発行

■目次
・1992年のトピックス

◆1992年のトピックス

1月
年末までにアドルフ社CEOガイザーは辞任すると公表。

2月
ガイザー、カネチューとのライセンス契約を4年延長。これにより、アドルフジャパンの日本法人化プロジェクトは消滅。

4月
ロンドン。アドルフが売却したサブブランド「シューズ」のセールスミーティング。

5月
ロンドンのユダヤ系実業家ボータイがルドルフ社の株95%を買収すると発表。アドルフジャパンは、「シューズ」でのつきあいで、ボータイと面識あり。一度は消滅した日本法人化がまた現実的な課題となった。一方、オーナーがユダヤ系英国人になることにより、ドイツ人アドルフ社員は、将来の不安を感じた。

6月
現在のアドルフのオーナーが所有するテニスブランドの、本社スタッフ一行が来日した。日本の代表は、秘書とプライベート秘書の2人を使って、ポランを牽制。代表のディスアーネストな動きに、ポランは退職を決意。代表は秘書2人をつれて、シンガポール、イタリアへ出張。

10月
16日:ロンドンでの「シューズ」のセールスミーティングにおいて、ユダヤ系実業家ボータイはM&Aのための精査の結果、アドルフの買収断念を正式に発表。

26日:ニュールンベルグでのアドルフ社のセールスミーティングにおいて、CEOガイザーはアドルフジャパンの閉鎖を発表。

11月
6日:ガイザー辞任。

12月
31日:アドルフジャパン閉鎖。ジャパンの機能は、カネチューが吸収。

◆あとがき

1992年12月31日に、自分がのめり込んでいたバブルが終わりました。この4年間は、ドッグイヤーでした。社内外での、そして英独仏米伊の実業家が入り乱れてのグローバルなパワーゲームが展開され、多額の現金と人が動きました。

文中で紹介した田原、代表、ガイザーのように動けば、美味しい蜜を次の場所へ持ち込めたと思います。振り返れば、当時そんなことは思いもつかず、「いかに負けるか」などという「美学」に独り浸っていました。

48号 7月20日発行

■目次
・秘書を総括
・秘書に求めたこと

◆秘書を総括

バブル華やかな頃の外資の秘書8人を総括。4人のディレクターについた秘書の動きも当のディレクターたちと同じようにパワーゲームの脇役として重要な役を演じた。1992年12月31日現在、秘書A-2とC-2が最後のランチに参席した。残りはそれまでにすべて自己都合と会社都合のどちらかでリリースした。

秘書A-1
アドルフジャパン創立時の代表秘書。秘書として代表の口述筆記をしているので、コンフィデンシャルな事柄のほとんどに触れる立場にあると本人は思っていた。ところが2代目の代表が悪で、秘書に作らせた英文レターを本社CEOに出す前に、自分で改ざんしていた。そして本当にコンフィデンシャル(秘書なら嘘とわかる内容)はエキン時代の私設秘書に作らせていた。それが発覚したとき、A-1は突然出社しなくなり退職した。

秘書A-2
A-1の後継は、英字新聞に広告をだして募集した。何人かと面接したが、結局、気にいらなかったのでテンポラリーセンターから派遣をとり、2ヶ月後、正社員とした。派遣の2ヶ月間、A-2は完璧な秘書を演じた。そして正社員に採用されてすぐ元の野生に戻ったが、最後まで代表秘書として生き残った。

秘書B-1
この秘書も創立時からいて、ドイツ人のシューズ担当ディレクターの秘書をしていた。ドイツ人の世話をしていたので、本社とのインフォーマルなコミュニケーションに強みを持っていた。そして、テキスタイル担当の田原の秘書も兼ねており、ドイツ人ボスの指示のみで動く扱いにくい社員であった。このボスがドイツに戻り後任が来たときに、リリースした。B-1はリリースされる時、リリースを告知したボスに延命嘆願をせず、本社のCEOはじめ幹部に嘆願書をおくり、延命を図った。ドイツ人は動かなかった。

秘書B-2
B-1のケースにこりて、後任の秘書はポランの人脈から送り込んだ。信頼性が高まり、安心して欧米でのビジネスミーティングに出席できるようになった。残念ながら、ご主人の転勤により1年で退職した。

秘書B-3
B-2の後任は、また派遣会社にたより、派遣契約期間終了とともに正社員として迎えた。シューズ担当のドイツ人がライバル社のインドネシア工場に転職し、後任にはフランス人が赴任した。こいつはラテン系で仕事よりも快楽を選ぶタイプで、B-3はたちまち、プライベートのお世話までするようになった。

秘書B-4
職場でアフター5の雰囲気が目立つようになってきたのでB-3をリリース。フランス人ディレクターは抵抗したが、結局、B-3とはアフター5のみの付き合いにすることで決着。後任のB-4も派遣社員として3ヶ月試用して正社員に迎えた。B-4のご主人は米国人ということもあり、英語が堪能であったが、日本的な根回しのビジネスプロセスに馴染めなかった。

秘書C-1
同じく派遣会社から採用したが、最後まで派遣社員の待遇であった。秘書C-1はハードウエア担当ディレクターの秘書であった。このディレクターは代表秘書の機能をもっていたので、基本的には、コンフィデンシャルな文書作成はC-1には依頼しなかった。C-1は大手外資銀行の役員秘書を定年まで勤めたベテランであり、仕事はスピーディで、朝は定時の30分前に出社し、掃除をしてくれた。Cタイプの秘書以外の勤怠はルーズであった。自分のボスがいないときは、定時には出社しなかった。C-1の勤怠は、それ以外の野生の秘書たちの勤怠に影響を与えなかった。C-1のボスは、朝7時に出社し、23時までオフィスのいることが多かった。

秘書C-2
C-1に加えてC-2を採用した。Cグループのボスは秘書を2人抱えた。C-1はハードウエア関連業務を担当、C-2は総務経理部門の業務を担当した。C-2は出入りの通関業者からの紹介で入社した。業務効率、作業の信頼性では秘書C-1はすばらしい人であった。C-2はC-1にない若さと明るさで、事務処理能力の不足部分をカバーした。

◆秘書に求めたこと
4年間に8人の秘書がアドルフジャパンを通過した。朝7時に出社し、23時までオフィスにいるようなハードワーカーのボスは、勤怠の悪い秘書を嫌った。長時間勤務を秘書には要求しないが、8時間で結果を出すことを要求した。優先順位の高いものから速やかに処理してくれることを秘書に求めた。18時以降オフィスにいることは期待しないが、朝は9時に仕事を依頼できるようスタンバイしていることを強く求めた。ボスは秘書が出社する2時間前に仕事をスタートしているのだから。

◆あとがき

通勤時間帯の車内で、ときどき体が触れるごとに触れた人の顔を迷惑そうに見る人がいます。比較的若い女性に多いのですが時々男性でも、少し触れると押し返してくるのがいます。混んでいる車内で接触するのは避けられないのに、本人たちは毎日繰り返しているのでしょう。このタイプの男性がたまたま後ろにいて、電車が揺れるたびにこちらを見たり押し返したりしてきました。不愉快なのですが、ほっておいたら、席があきその男性が座りました。これで不愉快な動きから開放されたのですが、もうひとつ快挙がありました。その座った男性の前に立った年寄りが、網棚に荷物を載せようとして失敗し、いろいろな荷物を座っていた男性の頭の上に落としてしまいました。それを見て、思わず笑ってしまいました。今日も一日楽しい日になるなと予感しました。年寄りに席を譲らなかったのも悪いのですが、何しろ年寄りですから仕方ありません。この男性、日頃周囲に不愉快な思いをさせているので、災難は自ら招いたものでしょう。

49号 7月27日発行

■目次

・1992年1月
・終わりの予感

◆1992年1月

アドルフのCEOガイザーが12月までに辞めるという。年の初めに、年末のイベントを発表した。1年前に進退を公表するとは意外であった。そして、辞任は、駆け引きの道具だと思った。トップマネージメントの近くにいたので、コンフィデンシャルな情報に触れる機会が多かった。うわさもあった。そのひとつが、CEOガイザーが投資家を集めて、フランス人からアドルフの株を買いとるという、動きであった。ライバルの台頭によるドイツ市場での優位性が危うくなっているときに、40歳のCEOは株主とのパワーゲームをしている。

◆終わりの予感

1987年9月に、15年在職した大企業を抜け出し、初めてのヨーロッパに単身で面接にいった。ドイツ企業に2年契約で入社し、紆余曲折はありながら、雇用契約は自動継続になり5年になった。振り返れば、ハンディのあるスタータをしたものだ。1)英語は理解したが外国人を相手にしたビジネスの経験がない。2)商品売買の経験がない。3)P/L、B/Sなどという財務諸表に触れたことがない。4)貿易の経験がなく、L/Cなど為替の仕組みを知らない。5)ビジネスレターの書式を知らない。6)国際的な詐欺師とのつきあいがない。

したがって、この5年間でそのすべてを経験した。一度入社してしまえば些細な問題になると期待して、アドルフに入社した。しかし欧米のビジネス環境は初めて経験する者にとっては、かなりの忍耐と強運を必要とした。同僚は、友人として食事をするときなど社交的な部分では楽しく付き合ってくれるが、いざビジネスの場面になると掌をかえすように態度がかわり、経験不足や無知については、容赦なく攻撃してくる。ビジネスエリートにとっては、仲間は少ないほど分け前が増えるので、いつも新入りは村八分の危険にさらされた。これは、時間が解決してくれた。理由はともかく、最初の3年でライバルや障害物は目の前からいなくなり、それにつれて責任範囲が拡大していった。これは実務経験を深めることに役立った。

もうひとつの問題は、上司の能力的限界と不品行、不誠実であった。「ほんの少しの事実を隠し味にして、大きな嘘をつくこと」を日常として、周囲にいろいろな嘘を撒き散らす。400年前の大商業都市出身者特有の「ぼけと突っ込み」の芸風の許容範囲を超えている。それを知っていながら、忙しさにまぎれて対決を先送りにしてきた。自らも詐欺行為の共犯となり、嘘をつかれたり、踊らされたりすることに免疫になってしまう恐れがあった。

「もうだめかもしれない」と、自宅で口がすべった。それを聞いた妻はあわてた。父に相談し、父は、アドルフジャパンの上司に相談するよう妻にアドバイスした。ビジネス感覚はともかく、信頼性のない上司に、家族が一報を入れた。こちらの手の内を見せてしまった。

これにより、会社での待遇が変化した。機密事項へのアクセスが難しくなった。思わぬ伏兵が出現した。家族の飛び入りでパワーゲームの形勢が不利となった。

◆あとがき

毎日、夏日が続いています。暑さに負けず、厄病神や貧乏神を蹴散らして、強運で乗り切っていきましょう。

50号 8月3日発行

■目次
・目指したこと
・どこへ行ったか
・面接

◆目指したこと

1988年から1992年までドイツ企業で仕事をした。そこで3つのことを目指した。1)グローバルなビジネスを経験すること。2)アドルフ社の日本法人設立にかかわること。3)アドルフ社の極東地域の責任者の一人になること。

◆どこへ行ったか

観光目的ではなく、フットウェアトレーディングとして各地でビジネスミーティングをもった。世界一周は3回経験したが、ハワイにもグアムにも、スペイン、アフリカ、シンガポール、タイ、インドにも途中下車する気持ちの余裕があれば行けた。時差ぼけと、次のレポートへのプレッシャーを克服できれば、もっと旅を楽しむことができたであろう。

1)ドイツ
ニュールンベルグ、ミュンヘン、ケルン、フランクフルト、ローテンベルグ。

2)フランス
ストラスブール、パリ、マルセーユ。

3)イギリス
ロンドン。

4)ベルギー
ブリュッセル、クノック。

5)イタリア
バリ。

6)アメリカ
ニューヨーク、ニュージャージー、シカゴ、アトランタ、フロリダ、ポートランド、ロスアンジェルス。

7)香港

8)中国
シンセン、上海。

9)台湾
台北、台中。

◆面接

1988年2月。初めてドイツへ独りで行った。何もかも初めての経験のなかで当時のハードウエア責任者シーケルと面接した。場所はミュンヘンの老舗ホテル、バイエリッシャホフのグランドフロアにあるラウンジ。二人でコーヒーを飲みながら話をした。「なぜ、日本の大企業をやめ、スポーツビジネスをやる気になったか」というような質問だった。「国際的な仕事がしたい。スポーツは平和な産業だ。戦争をしていたらスポーツ用品の需要はない。アドルフは世界一の会社だ。日本でも一番になるよう貢献したい。」と答えた覚えがある。前日は時差の影響と緊張で朝方まで眠れなかった。明日の朝は、きっとどこかの会議室にいき何人かのドイツ人の前で面接があるものと予想していた。意外にもラウンジでコーヒーを飲みながらの短い時間であった。その晩のパーティでは、CEOをはじめ大勢のドイツ人と握手をした。

◆あとがき

毎日、夏日が続いています。暑さに負けず、厄病神や貧乏神を蹴散らして、強運で乗り切っていきましょう。

51号 8月10日発行

■目次

・研修
・グローバルセールスミーティング

◆研修

1988年4月雇用契約にサインした後、2ヶ月ほど単身ドイツ本社、フランス本社に行って研修を受けた。これも初めての経験であった。まずニュールンベルグに行き、アドルフの経営するスポーツホテルに滞在。毎朝、研修担当者がホテルに迎えに来た。そして彼と一日中行動を共にする。まずお互いの経歴を紹介。次に担当する業務のプレゼンテーションを受ける。そして質疑応答が始まる。ここで特に質問がないといったら、そこで研修は終了する。その場をしのぐ質問は次のとおりだ。1)マーケットの状況2)競合他社3)ターゲット4)セールスポイント5)プロモーション6)価格決定の仕組み7)国別販売状況これらを日本の状況と比較しながら細かく聞くこと。それが終わると市場調査として町へ出て、販売店、デパートへ商品がどのように展開されているか見にいく。次は食事。ひとりの担当者と昼食、夕食を一緒にする。一日でチームの一員になれるかどうかが決まってしまう。

ヨーロッパの人間と話しをする中で大事なのは、質問されたことを笑ってごまかしたり、黙ったりして時間切れを待つのは不可能であること。聞き取れない、理解できない言葉がでてきたときは躊躇しないで聞き返すこと。何回聞いてもわからないときは、こちらで言い換えて、こういう意味かと聞く。自分にとって新しい言葉は、次から使えば、同じ言葉で話しができるようになる。

◆グローバルセールスミーティング

これは年に2回、各国の営業責任者を本社に集めて一年先の新製品を各開発担当者がプレゼンテーションする。期間は4日間。そこではまずアドルフ社の各役員が基調報告、経営状況、将来計画を説明する。参加者は朝8時から夕方6時まで分科会に出席し、夜は8時から11時頃まで延々と食事が続く。時差のため夕方から11時までは最も眠い。笑い話が面白くないからついアルコールを飲んでしまう。酔うとますます眠くなる、話がわからなくなる。この会議で各国は製品ごとに発注見込み数を提出する。ミニマルロットに達しなかったサンプルは2シーズン先のコレクションからはずされる。

◆あとがき

残暑お見舞い申しあげます。先週、読者の方からうかがった話をご紹介します。新婚生活がそろそろ安定し始めるころのカップルなのですが、知人の話が家を買う時の判断に影響を与えたそうです。

「結婚後数年経つと、DINKSでは小金が貯まり、住宅ローンの頭金ぐらいにはなります。そこで家を買おうという話になったとき、些細なことで夫婦喧嘩をしました。この先20年、ローンを抱えて家に縛られて、家庭と仕事を維持しなければならないリスクを考えると、ここで家を買うことは賢明ではないと判断しました。翌日、キャッシュで真っ赤なフェアレディZの新車を買いました。2年後にはキャッシュで白のTバールーフに買い替えました。」

賢明な若夫婦は、この話をきいて、土地と建物をそれぞれの名義に分け、土地は男性名義、建物は女性名義にして、それぞれが別々にローンを組んだそうです。

52号 8月17日発行

■目次

・プレゼンテーション
・マーケティングミーティング
・ライセンス契約

◆プレゼンテーション

これは非常に大事なイベントである。スライド、ビデオ、サンプル、モデルを使って出席者にアピールする。これが上手にできない者は職を失う。欧米社会では自己PRにより他人を押し退けてポストを手にすることが常識であり、最年少のマネージャーが古参の部下を使うのはよく見られる光景だ。(1988年当時、アドルフ社のCEOは38歳だった。)まず、マーケット状況を説明しブランドのポジショニングを明確にし、ターゲットと商品群の関連性、価格設定の考え方、他社の動向を説明することに十分な時間を使う。新製品のサンプルを見せるのはその後になる。

◆マーケティングミーティング

年に1度、年末に各国がドイツ本社で役員にプレゼンテーションをする。各国が個別に営業報告と次年度の計画を提出し、質疑をして決定する。この会議は大きな規模で実施し、本社の関連部門の責任者は全員出席する。主要マーケットには半日かける。CEOとの事前打ち合わせで大筋は了承されていることが多い。

日本の代表は、この会議の席でスナップ写真を撮り、後日参加者に手渡しをしてコミュニケーションをとっていた。まずこのような重要な会議で写真を撮る者はいないので、冷たい視線を感じたが、後日写真をもらうときにはドイツ人の顔は変わっていた。重要会議のメンバーであることを証明する写真なので、本人たちは喜んでもらっていた。

◆ライセンス契約

アドルフは世界160カ国で販売しているが子会社を持っているのはヨーロッパ主要国と米国、香港のみで、イタリア、オーストラリアなどはライセンス契約である。日本はサブブランドで子会社を設立した。世界のスポーツ用品の最大市場は米国で日本はその次といわれていた。ライセンスビジネスは通常、売上が落ちれば契約を打ち切り、他のパートナーを探す、売上が良くなってくれば、これもまたライセンス契約を解消して子会社でやろうとする。ライセンスを所有しているものにとっては、総代理店からの商標使用料のみが収入なので、販売代理店の売上減は、ブランドそのものの価値の低下をもたらしてしまう。代理店が売上の5~7%を自費で広告宣伝に使うことが契約書に明記されている場合が多い。ブランドの塩漬けを避けるためである。

ある大手カバンメーカーは、多数のブランドと独占的な販売契約を締結している。中には自社ブランドと競合するブランドがある。この場合は、まさに競合ブランドを塩漬けしてしまう。

◆あとがき

8月15日は、東アジアの半島では開放記念日として国民の祝日になっています。日本は神社に議員が参拝するかしないかが、いまだにマスコミのネタになっています。5000年の歴史の中で、日本が東アジアの盟主であったのは、この100年だけのことなのに。

53号 8月24日発行

■目次

・ISPO、SUPER SHOW、NSGA
・HANDELS AG
・並行輸入

◆ISPO、SUPER SHOW、NSGA

年2回ミュンヘンのメッセゲレンデで開催されるISPOはスポーツ用品展示会の中でも最大の規模のイベントであり、この会場では、いまだにアドルフ社は過去の栄光の面影を残している。アトランタで開催されるSUPER SHOWは名称と同じで派手なショーが来場者の楽しみになっている。ここは米国エキン社の独壇場で、同社の商品開発力、広告販促活動、営業方針は他社の見本となっている。NSGAはシカゴで開催される。世界一の規模の建物が立ち並び、近くにはカナダにつながる湖がある。この3つの展示会の前後に各国で開催されるセールスミーティングに出席した。

◆HANDELS AG

これはアドルフ社の商社機能をもつ子会社で本社はスイスにある。アジア地区は香港に支社がありアドルフファミリーゆかりの社員が責任者をしている。子会社を除く販売代理店(ライセンシー、ディストリビュータ)の売上を管理する。主要先進国(独、仏、英、米)は子会社があるため、製品購入価格はHANDELSの価格より安い。したがって日本はパイロットの子会社をつくり、ドイツ本社直轄とした。

◆並行輸入

日本におけるアドルフ社の並行輸入は深刻である。年間、日本のディストリビュータであるカネチューは正規ルートで約150万足のスポーツシューズを販売していたが、一方で並行輸入業者はピーク時70万足を海外のアドルフ関連会社から輸入したという。これは贋物ではないため合法である。時の政府は海外の圧力を緩和させるため、輸入促進を指導していた。

1992年前半に、前述のHANDELS香港が日本への並行輸入にかかわっている書類が暴露された。それによると、HANDELSはシンガポール、マレーシアの代理店にそれぞれの国内販売量を超える数量を販売し、HANDELSの元社員がその代理店に入り込んで、自国内で販売されるべき大量の商品を名古屋に本社のある日本の並行輸入業者に輸出していた。

HANDELSは創業一族が直接管理していた会社で、社内では聖域になっていた。香港の責任者はアドルフファミリーの親戚だと噂されていた。アドルフファミリーが持株を売却したため、このカラクリが表面化したもので、並行輸入の甘い汁を吸っていた中には、CEOと香港の担当役員が含まれると想像された。しかし、一連の社内組織変更と買収劇が二転三転する中で、事実を知る関係者は各局面で別件解雇され、社内不祥事は闇に葬られた。

◆あとがき

ようやく湿度が下がりはじめ、朝晩は涼しくなってまいりました。若い頃は、夏の終わりの旧軽銀座にバーゲン品目当てに行ったものでした。いまでは、長野オリンピック道路沿いに大アウトレット市場ができているので、「夏がくれば想いだす」という季節感が薄れてしまいました。

夏バテにご注意ください。それと、生ゴミのような人たちのことでカッとして感情を高ぶらせたり、胃のなかを真っ赤にしたりするのは体に悪いですよ。せっかくの強運が、種嶋シンドロームと同様、気をとられているうちに、どこかに逃げ出して行ってしまいそうです。

54号02年8月31日

■目次
・工場見学
・スポーツイベント
・M&A

◆工場見学

台湾(台中)、中国(シンセン、上海)、フランス、ベルギー、イタリア、日本(九州、広島、阪神地区、横浜)のシューズ、ラケット、サッカーボール、スポーツバッグの工場を見学した。驚いたのはほとんどが手作業で生産していたことである。材料が天然皮革、石油製品、天然ゴムなどで、どれも悪臭、騒音、汚れのひどい職場環境である。中国のシューズ工場の女子工員の月給は70米ドルである。

工場を訪問すると各職場のマネージャーは訪問者(バイヤー)のコメントに神経質になる。何か悪い評価がされると職が無くなるからである。中国の工場では各個人の作業台に旗がたっており、色によって評価されていた。( 赤は優良、ピンクは普通、黄は要注意で前回ミスを犯している) さらに重大なミスは壁新聞に氏名が公表され罰金が科せられる。紅衛兵時代の名残が感じられた。

◆スポーツイベント

五輪、世界陸上競技大会、サッカーワールドカップ。アドルフはこれらのスポーツイベントに多額の予算を使ってきた。選手へのスポーツ用品提供と大会スポンサーで世界一のブランドになった。オフィシャルスポンサー、サプライヤーになると競技会場内から競合他社を締め出すことができる。さらに日本の広告会社と共同出資した会社は五輪マークの商品化に成功し、莫大な五輪マーク使用料を稼いでいる。しかし、オーナーと2代目の急死により後を継いだビジネスマンは、創業一族が築き上げた世界一の栄光を過去のものとしてしまった。米国と日本のブランドがドイツ商圏に上陸を開始すると、アドルフ帝国の神話は崩壊を始めた。

◆M&A

欧米の企業経営者は会社への忠誠心が希薄な場合が多い。ホワイトカラーは数年で転職する。幹部社員、役員にとっても現在の会社はステップアップのためのものであり、短期の経営実績が最大の関心事である。株主は常にM&Aによる利益確保を考えている。事業を拡大して信用をつけ利益をあげるのは、企業の付加価値を高めて売却するためである。おしゃれなスポーツブランドをもつイタリア人オーナーは日本における商標権を日本企業に売却した。このときの売却額の目安は、オーナーが残りの人生を遊んで暮らせる額に相当するものであったといわれている。

◆あとがき

オーナー企業には企業文化に特徴がありますが、経営判断にもオーナーの意向に沿った独特なスピード感があります。一方、サラリーマン経営者には、頭脳はあっても度胸がない人が多いといわれています。何人かの社長の下で働いてみないと事実かどうかわからないでしょうが、庭の木が紅葉したことで天下の秋を知るといい、ひとつのサンプルがこれから起きる事柄の前兆と考えることもできます。最近、そういうサンプルをいくつか周辺で見かけています。

55号 02年9月7日

■目次

・アドルフ売却劇

◆アドルフ売却劇

アドルフとチータの創業者は兄弟であった。ニュールンベルグはヒトラーが旗揚げしたことで有名な場所だが、そのニュールンベルグ郊外の小さな村が発祥の地である。村の中心を流れる小川の両側に本社をかまえていた。弟が創業したチータはすでに香港の商社に売却されている。

1987年アドルフの2代目が急死し、2代目の未亡人と4人の先代の娘という5人の女性に所有権が移った。アドルフ家は相続税の支払いのために世界一のブランドを手放すことになった。1989年仏版田中角栄といわれた、フランス社会党議員に95%の株が売却された。この議員はまもなく政界での地盤沈下と借入金の金利返済で資金不足に苦しむことになる。残りの5%は3代目が所有した。1990年アメリカ法人の膨大な累積赤字を補填するため、アドルフはサブブランドの売却を始めた。1991年95%の株のうち、20%をフランス人は英国人に売却した。この英国人はユダヤ系の投資家で、アドルフのドイツ人幹部社員は、ナチスの負債を支払うことを恐れた。アドルフの西半球の責任者がドイツ系ではない英国人ビジネスマンに入れ替わった。1992年20%を買収したユダヤ系投資家は95%を引き受けると発表。M&Aにともなう精査(DUE DILIGENCE)を実施。世界160カ国のアドルフの中身を3ヶ月にわたり調査した。日本法人とマーケットについても、代理人の監査法人が1週間にわたり精査をした。一番関心があったのは、将来にわたり不利益となる契約の有無であった。精査の結果、買収を断念した。買収破棄が認められるほどの重大な問題点が米国発で発覚した。

ユダヤ系英国人への売却に失敗したフランス社会党下院議員は、アドルフ経営権をフランス銀行投資団が支持する女性に渡した。一世風靡したドイツ名門企業は仏銀行団の管理下に置かれた。

一方、売却を断念したユダヤ系投資家は、株主に「アドルフ買収に準備した多額のドイツマルクをポンドに換金することによる膨大な為替差益」により買収以上の利益確保を公表した。

この5年間のアドルフの歩みは、バブル経済の浮き沈みに起因するもので、現在の経営陣はこの時期を暗黒時代とし、当時の経営幹部の実績は評価されていない。

◆あとがき

中国の都市部は予想以上に近代化が進んでいるようです。また、中国民営企業は日本人の管理職経験者を大募集しているという記事も目にしました。言葉は二の次という条件もあります。5年もすると中国に出稼ぎに行く日本人ビジネスエリートが増えるのではないでしょうか。

56号 02年9月14日

■目次

・アドルフジャパン閉鎖

◆アドルフジャパン閉鎖

1992年1月アドルフ本社CEOが年内に辞任すると発表。10月26日ドイツ、ニュールンベルグで開催されたセールスミーティングでアドルフジャパン閉鎖が発表された。11月6日 CEOガイザー辞任。12月31日 アドルフジャパン閉鎖。ジャパンの代表はアドバイザーとして残り、ボーナスとして30万ドイツマルクを受け取る。(雇用契約に明記されていた)

閉鎖にいたる概要1987年日本法人を設立するため、連絡事務所が開設されたが、まず2代目の急死でプロジェクトは出鼻をくじかれた。次には相続税が払えないという創業一族の財政問題。さらには米国と日本のブランドがドイツ市場侵攻、世界一の座は米国ブランドに奪われた。アドルフ米国法人の膨大な赤字と、ヨーロッパ市場でのシェア低下により、売却劇が展開された。アドルフはヨーロッパ市場死守を第一優先とし、同時に米国の赤字を減らすことに最大の努力をすることにした。そこで、アジアパシフィックのマーケットは切り捨てられた。アジアパシフィックの資産は香港に統合。年間25~30億の利益をもたらしていた日本法人は、例外を認めないというドイツ本社の論理で閉鎖された。日本の商権売却に向けてスタッフ1名がアドルフフランスから派遣され、事務所機能はカネチューに吸収された。社員は会社都合で解雇。

◆記憶に残る人物

日本のマーケットサイズが大きいことと、日本企業の資金力の魅力に引き寄せられ、多くの有名人が、アドルフジャパンと接触した。彼らとは現地で会い、また来日時にはマーケットの説明や会議・会食に同席した。実名で公表しても問題がないと考える人物は以下のとおりである。

ベッケンバウアー(皇帝とよばれる。ゴルフはシングルプレーヤー。)ベルナール タピ(元フランス社会党議員、仏版田中角栄)ピーター ユベロス(ロス五輪組織委員長。90年代初めまで米国大統領候補といわれた)マーガレット サッチャー(元英国首相)アンドレ アガシ(スポンサー契約時にウインブルドン優勝)

◆あとがき

「乾柴 烈火」という言葉をききました。ビジネスシーンで口にするのは、不適切という声もありました。烈火という強火に乾いた柴はすぐ火がつきよく燃えるそうです。ビジネスシーンでたとえるなら、「乾柴」さんと「烈火」さんの組み合わせは、「才能と資金」「技術力と営業力」「需要と供給」という、まさにベストパートナーということです。

57号 02年9月21日

■目次

・アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の1
・リフレッシュコーナー「ダイエット」

◆アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の1

アドルフのCEOルネ・ガイザーは1992年1月、年内に辞任すると公表。しかしながら11月まで辞任せず、その間に多くのライバルを解雇し株主のフランス人投資家と覇権を競い、同時に替わりのパトロンを探してアドルフを買収し、オーナー社長になろうとした。

ガイザーは、アドルフの2代目が急死した1987年当時、副社長で38歳であった。アドルフ家は顧問弁護士を後継者に考えたがガイザーが就任した。2代目の4人の姉妹と2代目の未亡人の5人のご婦人が各20%の株を保有したが、姉妹の不和と相続税の支払いのトラブルに乗じて、ガイザーは、4人の姉妹の持株80%と未亡人の株の15%の合計95%をフランス人投資家に売却させることに成功した。これにより、アドルフ家の支配を断ち切りガイザーはドイツ・アドルフ帝国の支配者への道を開いた。

しかし、新オーナーのフランス人とは反りが合わなかった。フランス版田中角栄と呼ばれるほどに過去の実績が障害となった。企業を買収しては切り売りして利益をあげてきたのでアドルフもその危険があった。不安はすぐ現実のものとなった。買収資金を銀行からの融資でまかなったため、すぐに転売しないと、金利が払えなかった。

ガイザーは米国法人の巨額の赤字を穴埋めしヨーロッパ大陸でのシェア奪回のため、多額の追加投資が必要であったが、新オーナーから資金を引き出すことに失敗した。

ガイザーはまず2代目が着々と買収して育てたマルチブランド戦略をやめ、サブブランドを切り売りして1990年、1991年と赤字決算から逃れた。1992年、ガイザーには売るものがなかった。社員はガイザー就任当時1万人いたが、3年で独・仏の自家工場を閉鎖することにより6千人に減らした。これによりアドルフの地盤沈下が早まった。

アドルフはサッカーとオリンピックに的を絞り、その他の分野から手を引き始め、スポーツ用品の王者の地位を自ら降りてしまった。自家工場を閉鎖し東欧や極東に生産基地をシフトすることにより、確かに製造コストが下がった。だが、一方でブランドイメージを落とし、納期遅れと品質不良をもたらし、競合他社との競争力を著しく弱めてしまった。

◆あとがき

「動」の中に一瞬の「静」がのぞく。テークバックからダウンスイングへ移ろうとする時クラブが中に浮いたように止まる一瞬があります。ほんの少し「静」が長くてもあるいは短くてもスイングは崩壊します。プレーヤーは、大きく弧を描くインパクトからフィニッシュへの「動」のすべてを、その一瞬の「静」にかけているわけです。

1Q、2Qと大きくテークバックしたあと、3Qの「静」が、次にくる4Qフィニッシュに向けた「動」の成否を決定することになるでしょう。

58号 02年9月28日

■目次
・アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の2
・アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の3

◆アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の2

アドルフのCEOルネ・ガイザーは就任2年目、大手広告代理店からマーケティングの責任者を招き、リサーチ会社に自社ブランド調査を依頼した。10CMほどの結果レポートを読んだ古参の幹部社員は、いままで蓄積してきたブランドイメージの理解と大差ないことを知り、調査費は浪費であると非難した。また、同じくリサーチ会社の社員を生産管理の責任者として役員待遇で迎えた。異業種からの人材と、前職や同胞でチームを組み組織改革を断行した。仏人オーナーとは反りが合わなかったが、オーナーに資金力がないのと現役国会議員という制約があったため、この仏人は経営に口を出すことがあまりなかった。CEOは人事異動と解雇を楽しみ、ある意味で恐怖政治を行った。ドイツ人は歴史的に上からの強大な圧力を好み、強制的な集団行動に力を発揮する。ガイザーは社内の覇権を獲るのに成功した。

しかし、経営者としては成功しなかった。JO商会の社長はガイザーを「若い」と評価し、カネチューの役員には「小僧」扱いされていた。「露見した弱さ」時間にルーズなこと:カネチュー役員との会議をすっぽかした。社内会議は常習的に遅刻。副業:スイスにコテージを買い、オーナーとして営業活動を展開。アドルフCEOの地位を利用した。公私混同:オリンピック、ワールドカップのチケットをプライベートの事業に流用。「死の商人」と組んでスペインのリゾート開発に参画。

確かに業界では世界一のCEOに38歳で就任したわけで、優秀な人物であることは疑いのないことである。仏人実業家のオーナーとの取引には成功したところもあるだろうが、結局オーナーは新たな投資をしないで株を転売し、かなりの利益を手にした。ガイザーは優秀であったが、仏人政治家には勝てなかった。ガイザーは投資グループを探し、自らがオーナーになろうとしたのが、1992年である。彼は1992年1月に、1993年にアドルフCEOを辞任すると記者発表した。そして1992年11月までとどまり、その間株主とのパワーゲームを展開した。

ガイザーは自己の目的達成に役にたつ人材を残し、会社の売上には貢献するが自分のためには無用な人材を解雇した。1992年はガイザーの個人的な事業のためにアドルフ全社が踊らされていた。業界はこれを歓迎した。アドルフの内紛は売上と指導力と人材を浪費し、競合他社は漁夫の利を楽しんだ。

◆アドルフジャパン総括「CEOガイザー」の3

仏人オーナーは、アドルフの95%の株を高く売却しようとし、一方の経営責任者は赤字を出して会社の資産価値を下げ、自ら買収を企てた。この経緯が、業界ゴシップ新聞に詳細に連載され、社員は記事の内容を事実と認識していた。心ある人物は転職を選んだ。仏人オーナーはCEOを解雇すると脅し、CEOはやれるものならやってみろという。もはやドイツ名門企業には後継CEOに指名されるような人物は社内に残っていなかった。

ガイザーは1992年11月、考えられる限りの裏取引と解雇を終え辞任した。アドルフの経営権は仏銀行団に移り、銀行団は大手広告代理店からCEOを迎えた。

アドルフの権威失墜は創業一族の2代目急死で加速したが、2代目の後を継いだスイス人若社長の存在も無視できないものであった。

◆あとがき

季節が変わろうとしています。ビジネスマンの読者にとっては、健康管理を強化して、ノイズを跳ね返し、年度末に向けて事業計画必達という季節を迎えています。プラス志向で人生を楽しみたいものです。

59号 02年10月5日

■目次

・アドルフジャパン総括「代表」
・リフレッシュコーナー「次の日にやってこない痛み・・・!?」

◆アドルフジャパン総括「代表」

アドルフジャパンの代表が詐欺師であるというのは、1986年から予想していたことである。会社は仲良しグループで運営されているのではないと考え、許容範囲にいれて仕事をしてきた。しかし詐欺行為と知っていながら部下として従えば、結局詐欺師の仲間になり、違法行為の共犯となってしまう。領収書の改ざん、架空出張旅費請求などを目撃して、ジャパンの将来性に不安を感じた。

最初は、タクシー領収書の書き換えだった。しかし遅すぎた。気がついたのは、1992年の春だった。経理事務をやっていた事務員に対する代表の気の使い方が異常であった。経理の池谷は何故か代表の弱みをつかんでいるかのように態度が大きかった。代表は女子事務員の評判を非常に気にしていた。彼女たちに嫌われると本社における自分の立場が悪くなると恐れていた。

年収2千万を越す収入があるのに、近所で買う薬品からスーパーの日用雑貨まで会社に請求した。経理の事務員は、代表は給料に手を付けなくても生活できるといってい
た。事務所の出金伝票を見て驚いた。代表は西日本の地方都市でタクシーを毎日3万
円以上利用していることになっていた。経理は領収書の改ざんを黙認していた。それ故、彼女の態度は大きく、たまに口止め料が入るので居心地が良かったのだろう。

不正な支出はともかく、代表はアドルフCEOの片腕と称し、様々な嘘を並べて生き残ってきた。英語で意思疎通が十分できないのにもかかわらず、CEOガイザーに気にいられていると豪語できたのは、CEOが日本の大学で学び日本語を理解したからであった。私は何回かガイザーと話をする機会があったが、彼は一度も日本語を話さなかった。公的な立場でものを言うときは、母国語を使うのが一般的だ。

ガイザーは他の経営幹部が日本の企業トップに接近するのを牽制するため、日本を社長直轄とし「代表」を泳がせたのだ。ここに代表との利害が一致した。

西日本の地方都市の会計事務所の跡取りに「あなたは、東京の人だから気がつかないかもしれないが、代表の顔は詐欺師の顔で、この土地ではだれも彼の言葉を信用しない。」と言われた。その意味で欧米人は彼をエコノミックアニマルのサンプルとして面白がって見ていたのだろう。一度それが気になると世の中、この種の人間がほかにもいると思ってしまう。しかし30年振り返っても、彼ほどの詐欺師に未だに思い当たらない。

時々、代表に、善人と思い違いをさせられることがあった。「僅かばかりの事実を隠し味にした芝居」である。何回も騙された。死刑囚が永年無実を訴え続けていくうちに、本当に自分は無実だと錯覚してしまうようなものだ。彼は本当のことをいっていると錯覚して自信をもって嘘をつく。涙を流して騙そうとする。嘘を真実と錯覚して胸を張って言うのだから、ほとんどの人は、一度は騙されるだろう。翌日には嘘がバレる。それを隠すためにまた嘘をつく。

代表を良く知っている連中が「代表は馬鹿だ」と断定するのは、嘘がバレている人たちにも躊躇わずに何回も嘘をつくためである。

代表は天才だ。嘘つきで馬鹿で詐欺師であると知っている人間が騙されたふりをしているうちに、利用されている。下品で羽振りのいい代表の話に、胡散臭さを感じながらも、「こいつは頭が悪そうだ、利用できる」と勘違いし、ついつい誘いにのってしまう。

アホの坂田は馬鹿ではない。結局、修羅場を潜り抜けられるのは、ビジネスエリートではなく、嘘をつきながら、したたかに甘い汁を吸って生きてきた男たちである。

◆あとがき

今回のリフレッシュコーナーはいかがでしたか。筋肉痛が2~3日後にやってくるという自覚症状はあるのですが、理由を考えたことはありませんでした。人の話というものは、聞いてみるものだと、あらためて反省しています。
プラス志向で人生を楽しみましょう。

60号 02年10月12日

■目次

・アドルフジャパン総括「事務員」
・アドルフジャパン総括「会話のメモ」

◆アドルフジャパン総括「事務員」

副題:小さな会社の地方育ちの女子事務員

アドルフジャパンに参加して驚いたのは、女子事務員の質の悪さであった。学校を卒業して少しばかりの英語ができるので、優秀と勘違いをしながら外資に入社する。そこでは、上司の勤怠にあわせて仕事をする。上司が休めば休むし、遅刻することがわかっていれば朝はゆっくり出社する。もちろん上司が海外出張中は開店休業状態だ。

彼女らにも、言い分はあった。

「男性社員は、なりふりかまわず、社内で権力闘争や派閥争いをして高給をとって優雅な暮らしをしている。責任者は架空出張や領収書を改ざんして甘い汁を吸っている。毎週末、東京に出張し新宿のホテルに社用で泊まって、家族のいる川崎市の家には帰らない。社内の人間には、川崎に帰ったと嘘をついてごまかそうとする。」

このような環境のなかで、良質な社員を求めるのは無理だ。しかしこれに気がついたのは、3年もたってからのことで、遅すぎた。初めての外資、欧米でのビジネス環境に適応するだけしか頭になかった。

私は彼女たちの品のなさ、質の悪さは、企業で新人教育を受けず、野性のまま居心地のよい事務所に生息したためだと思っていた。振り返ると、これは100%の原因ではなかった。我々年長者の影響を考慮していなかった。

◆アドルフジャパン総括「会話のメモ」

7月10日(金)12:00~12:15
代表)今、M社の内藤さんから電話があって「話が違いますがどうなっているのですか」といわれたが、まったくどうなっているんだ。僕は何のことだかわからないから、答えられなかったが、どういうことだね。

女子)ただ私は代表の方から航空チケット代にといわれましたので、その領収書とできれば宛名をジャパンで手配してもらえるよう、ポランさんの方から言っていただいただけです。

代表)何をいっているのか、わからん。これは私が内藤さんに頼んで村田君・・誰になるかわからないが、会社のためにジャパンのためにしていただく分で、いろいろとどうするか考えて僕がお願いしてやってもらっていることなのに、勝手なことをされてはだめだ。
そんなことは決してだめだ。なぜ?どういうことなんだ?そういうことを分かってやっているのか?

女子)ですから、それは何に使われても、誰が使われても結構ですが、それがわかる領収書をアタッチしておかないといけませんので、それをポランさんが依頼されただけです。

代表)何をいっとるのかわからん。君のいうことは僕にはわからん。

女子)ポランさんに直接きいてください。
私はポランさんの指示に従っただけですから。

代表)ポラン君ポラン君と、ポラン君は関係ないだろう。彼がこのオフィスのボスじゃないじゃないか。このオフィスのボスは僕ですよ。

女子)そういうことではなくて、ポランさんのお立場上、経理上のことはちゃんと確認して指示を仰いでから・・

代表)ポラン君の立場なんてないんだよ。私の立場もないんだ。立場で仕事をしているんじゃないんだ。立場なんて関係ないんだ。僕のいっていることがわかりますか。

女子)わかりません。何がおっしゃりたいかのか。何をおっしゃられているのか。私にはわかりません。

代表)いいですか。このオフィスは本社とカネチューの間に立って、ドイツの方針やガイザーの考えを伝える役目があるんです。しかしガイザーは直接カネチューと話とるんですよ。僕は何も知らない。後でカネチューから聞かされて。
立場なんてものは無いんですよ。僕はそれでもかまわない。会社がそれでうまくいくんだったら。立場なんてものは必要が無いんですよ。わかりますか。

女子)今のお話はわかります。でも。
私の言ったポランさんの立場というのは、代表はポランさんに経理関係のことは一切まかせられていると伺っています。私が代表に逐一お金の動きを報告するわけにもいかないじゃないですか。ですから、私のするすべての内容はポランさんに報告していますし、指示も受けます。その後は代表とポランさんの問題じゃないでしょうか。
これ以上、私にどうしろといわれるんですか。はっきり言っていただかないとわかりません。

代表)確かに竹山さんのいうとおりですが、全くそのとおりなんですが、オフィスをもりたてるためには情報をひとつにしなければだめなんですよ。情報をひとつにするということは、VOICEをひとつにすることなんです。
竹山さんが間違っているとか悪いとかいうことではなくて、そういうことに協力してほしいということなんです。僕のいっていることがまだわかりませんか。

女子)わかりません。ポランさんとよく話してください。

代表)わかりました、明日にでもポランさんと話しましょう。

補足説明:

代表と女子社員との会話メモは、経理の女子社員が記録したものです。
航空チケット代と言う名目で仮払いの精算です。当時欧米への航空券はCクラスで80万、Fクラスで100万を超えていました。この金額を仮払いし、旅行業の免許をもたない有限会社が発行する出張費の領収書で済まそうとするわけです。もちろん、空出張です。当時はこのような非論理的な、嘘を嘘でごまかそうとすることが日常おこなわれていました。

◆あとがき

今週は、そもそも外資に踏み込むきっかけをつくってくれた人物、高校時代の友人が会社を整理しました。手形をとうとう落とせなかったそうです。30年会社を経営して、残ったのは3億あまりの負債。しかし、この30年間資金繰りに苦しみながらも、社長をやってきたわけですから、りっぱなものです。BMW、メルセデス、ポルシェ、キャデラックを20代から現在まで、何台も乗り続けてきただけでも元はとったと本人も思っていることでしょう。タイに行けば、年間100万円で人並みの暮らし
(メイド付)ができるといっていました。

61号 02年10月19日

■目次

・アドルフジャパン総括「ドイツ風ビジネスエリート」
・リフレッシュコーナー「足裏マッサージ」

◆アドルフジャパン総括「ドイツ風ビジネスエリート」

1988年から1992年の5年間、ドイツ企業に在籍し、日本市場を担当する一人として四六時中、頭から離れることはなかったドイツのビジネスエリートの総括。彼らは自分のジョブエリアではプロであり、たとえ知らないことがあっても、知っていると、はったりで切り抜ける。決して弱みを見せない。仕事は能率よく片付け残業はしない。休日は出社しない。時間内に終わらないのは、能率が悪く事務処理能力がないからだという。休日には自宅に職場以外の友人を招いて食事をする。何かに憑かれたように、週末には異業種間の情報交換を大切にする。

この裏側はもちろんある。残業はしないが、自宅に持ち帰って次の日までに間に合わせる。間に合わなかった場合には秘書が急に休んでしまって雑用に振り回されていると言い訳する。

残業が必要ないのは重要な仕事を選んでいない一般事務職員である。彼らは老若男女を問わず、最低の勤務時間とそれに見合う収入に満足し、生涯ステップアップを望まない。会社に対する忠誠心は希薄で床屋は床屋、肉屋の子は肉屋という職種のユニオンがあり、異業種に行くことはない。秘書はいつまでも秘書のプロであり、アシスタントは上司が辞めてもアシスタントであり、年功序列で階級が上がることはない。エリートを目指す青年はまず大学に入学し希望する職業の資格をとりインターンの経験をする。企業経営を目標とする若者は会社と大学院を往復してドクターの称号を取得する。ドイツは学歴社会である。役員がミスターで、若い社員がドクターと呼ばれることがある。ドクターの位を持つ者はエリートで、彼をミスターと呼んではいけない。(ドイツ語ではHまたはHerr)したがって職場での上下関係は勤続年数とか年齢ではなくどのような権限と仕事を会社と契約しているかで決まる。これを逸脱することはルール違反であり、解雇される。

仕事は人にまかせない。期限に間に合わなくても決して放棄しない。逆に仕事量が多いからとアシスタントを会社に要求する。レストランでも同じで、受け持ち区域以外のお客さまには、ウエイトレスは近づかない。たとえどんなに混んでいても慌てない。他人に助けを求めたらその分自分の取り分が減ってしまう。担当者は病気で休んでも、基本的には引継ぎをしない。仕事をとられるからである。Aの仕事をBが兼務できるのなら、Aは不要になる。したがって、担当者が不在のときは何も進まないことが多い。

休日に職場以外の友人と時間を過ごし、情報を得るためにいろいろなサークルに参加する。転職はステップアップのために必要であり、いつまでも同じ会社にいるのは能力がないからだと評価されることにもなりかねない。

◆あとがき

今週は、スポーツ用品業界でいえばナイキのような大手IT企業の理事とお話する機会がありました。席上、部下の方から聞いたのですが、このビジネスエリート(女性)が、PCの画面を見て涙を流されていたそうです。インターネットで、東アジアの半島の国家が仕組んだ神隠しの報道を見ながら、この方は多忙なビジネスの合間に涙を流されています。さすが、エリート。この人には心があると恐れ入りました。

62号 02年10月26日

■目次

・アドルフジャパン総括「企業への忠誠心」

◆アドルフジャパン総括「企業への忠誠心」

企業はトップが替われば理念まで変更される。この風土では企業に対する一般社員の忠誠心は育ちにくい。国籍、宗教、民族の絆を通じた人脈によってポストが左右される。

ビジネスエリート集団による経営で利益は上がってもブランドそのものの寿命は短くなる恐れがある。人材はブランドではなく、ビジネスエリートのまわりに集まる。この集団はひとたび企業のオーナーと対立すれば、彼らは躊躇わずに魅力ある競合他社に移っていく。

一般社員は企業経営を望まない。一定時間の労働で得た賃金で家族と健康的な生活を望む。親子二代続けて同じ会社に勤め同じ仕事をしている社員を解雇してはいけない。彼らはブランドを育てている。愛社精神を持っている。

ガイザーに翻弄されたアドルフは、「アドルフ家と3本線」に愛着をもつ6千人ものドイツ人を解雇してしまった。その結果、コストは削減されたが、企業への忠誠心を持つ人間がいなくなった。社員のモチベーションは失われ、ヨーロッパの商圏はますます狭まり、世界一の栄光は過去のものとなった。

アドルフを継承した現経営陣が編纂した社史は、この時代を暗黒時代と記している。

◆あとがき

「父の転職AtoZ 第2部外資」は、まもなく了を迎えます。第3部の舞台は、ニュールンベルグから東京湾に移ります。青島さんが東京都知事の時代における、ポスト「博打のバとギャンブルのブル」の世界をご紹介していきます。ご期待ください。

63号 02年11月2日

■目次

・アドルフジャパン総括「解散」
・リフレッシュコーナー

◆アドルフジャパン総括「解散」

1)やり残したこと考えられるすべての経験をしたと思う。仕事上やり残したことはほとんどない。

2)反省=解散1988年春、アドルフの将来性に期待してヨーロッパに仕事場を移した。言葉と文化の違いや不品行な上司の存在などで馴染めないところもあった。1年の大半を海外と東京で過ごしたため、芦屋に残した家族とは5年間ほとんど話し合いをすることがなかった。1988年当時小学生であった息子たちは高校生になっていた。

家族との絆はすでに破綻しかけていたが、離婚は会社員として不利になると思い問題解決を10年以上先送りにしてきた。皮肉なもので、家族とのコミュニケーション不足が外資で最後の勝負に出たときに裏目にでてしまった。役員の公私混同、汚職、不正な出費などに気づき、会社の将来性に疑いをもち、1992年の春退職を決意した。これを家族にもらした。家族は、不安になり「退職するといっているが何があったのか」と上司に相談した。上司がどれだけ不誠実な男かを家族には伝えていなかった。上司は部下の弱みを握った。いかに負けるか、または逆転勝利かと考えていたところであった。延長10回の裏、キャッチャーのエラーでサヨナラ負けをしたようなものである。

信頼できる人間とチームを組まなければ勝てないという気持ちで、15年勤めた原宿の会社を辞めた。まさかの原点で負けた。誠に残念な幕切れであった。

1992年12月、取引先にアドルフジャパン閉鎖を伝えた。家族には「解散」を宣言し、神戸の家裁に調停を申請した。息子たちは彼らの母親と神戸に残った。1993年の正月は東京で迎えた。

◆あとがき

「父の転職AtoZ 第2部外資」は、まもなく了を迎えます。第3部の舞台は、ニュールンベルグから東京湾に移ります。青島さんが東京都知事の時代における、ポスト「博打のバとギャンブルのブル」の世界をご紹介していきます。ご期待ください。

64号 02年11月9日(了)

◆外資=博打のバとギャンブルのブル -了--1992年12月31日、事務所の備品を処分し、残った社員4人で近くのタイスキ(タイ料理らしい)でささやかな昼食会をした。最後に電話回線を18時に解約。

アドルフジャパンは消滅したが、法人化に向けて設立した子会社は株式会社として存続した。代表は雇用契約に明記されていた多額のボーナスと相殺するかたちで、子会社を取得した。アドルフとは資本関係のない会社となり、東京にオフィスを移した。事務所の備品はすべてアドルフジャパンの処分品を流用した。もちろん事務所移転にともなう費用はジャパンの費用から捻出した。法人化のプロジェクトは消えたが、組織の解散と敗戦処理のタスクを実行することにした。一度は会社の清算を経験しようと、次のことは考えず、目前の処理に奔走した。12月中旬には、オフィス機能の東京移転を完了した。代表は、手にいれた会社で、専務のポストを私にオファーした。

1993年1月4日、東京オフィスに出社した。2月中旬に予定されている、アドルフジャパンのオーディットに対応するためであった。ジャパンを閉鎖したが、アドルフ本社は監査をやるという。社員ではないが監査の準備をした。ほとんどの書類は年末にシュレッダーにかけて処分していた。監査法人の担当者がきたが、すでに雇用関係は消滅しているので、無給でオーディットに応えているということで、最小限のヒアリングにしかならなかった。オーディットが終わるまで、スーツは着用しなかった。

オーディットが終了した夜、代表に口頭で別れを告げた。

◆あとがき

「父の転職AtoZ 第2部外資」にお付き合いいただきありがとうございました。第2部は、93年外資を離れ、次の職場が決まるまでの充電期間に総括した内容の一部を、登場人物のプライバシーに留意しながらご紹介しました。次号から、第3部です。舞台は、ニュールンベルグから東京湾に移ります。青島さんが東京都知事の時代における、ポスト「博打のバとギャンブルのブル」の世界をご紹介していきます。ご期待ください。

第三部:「春のうらら=夢のあと」へ続く。

この内容はメールマガジンに連載した内容を転載したものです。
発行責任者:吉野輝一郎

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